派閥という共同幻想/作家の書く歴史の作品的な評価/子どもがぐれやすい親とは/歴史と教育

Posted at 07/08/28

○ナポリにはないことで有名なスパゲッティナポリタンは横浜のホテルニューグランドで考案された、という話を今朝のNHKニュースでやっていた。

○昨日の夜も今朝も内閣改造のニュースが目白押し。派閥の領袖が5人、党三役と閣僚になったが、その5人といっても麻生、二階、町村、高村、伊吹。派閥全盛の昭和50年代の大平、田中、福田、三木、中曽根という派閥を受け継いだ(二階は出戻りだが)形ではあるが、全然違う。渡辺善美が朝のテレビで、昔の領袖は排気ガスをプンプン撒き散らしているような人たちだったが、今の領袖は電気自動車だ、と言っていた。排気ガスとは権力欲とか野心のことだと思うが、一応は総裁候補といわれているのは麻生くらいのもので、「派閥の領袖」と言う同じ言葉で語る意味がほとんどない感じだ。こういうものにこだわること自体がある種のアナクロな共同幻想なんじゃないかという気がする。

○昨日は夜に日記を書いたので新しいこともほとんどない。塩野七生『ローマ人の物語』は3巻とも読了した。塩野の文章は読ませる力があるのであまり知らなかったローマ史の個々の人物についても一定のイメージが出来、いろいろなものを読む取っ掛かりにできるという点でとてもよい。昨日の日記に書かなかったことでいえば、『ローマ人の物語』の作品的な評価と言うことだ。

ローマ人の物語〈11〉―終わりの始まり
塩野 七生
新潮社

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上の写真は単行本。塩野自身が言っているが、『ローマ人の物語』は小説ではない。また、歴史学者の研究書とも違う。作家の書いた歴史、というものをどう知的世界の中に位置づけていくかと言う点が問題になるのだが、塩野の言うように、イギリスなどではそういう作品もある種の積極的な評価をきちんと受けていると思う。日本でいえば司馬遼太郎の小説でない作品について、「司馬史観」という言葉が生まれているけれども、そのようにしてある種の市民権を得ている。ローマを含む西洋史に関しても、塩野史観とでもいうべきものは厳然とある。その存在を認めるかどうかは別にして。

塩野を読んでいて感じるのは、欧米での知的エリートの歴史に関する会話というのはこういうものだろうなということ。歴史上の人物についても人間的な評価とか業績の評価などについて、専門的な知識から個人的な好悪、自分の専門性や政治的な駆け引きなどすべてを駆使して会話を楽しみ、知識を得、理解を深めているのだろうと思う。日本の知的エリートというのは蛸壺的で、他の分野に関してあまり突っ込んだ関心を持たないことが多く、少し誰かに何か言われるとすぐ既得権を侵されることを過剰に恐れる傾向が強いように思う。知的世界というのは総合的なものであるはずで、特に歴史などというのは総合性の最たるものなのだから、どんな分野の人にも常に論戦を挑まれることを覚悟し、また逆にどんな分野の人の知見にも資することを目指さなければならない、本来かなりハードな学問なのだと思う。専門性の枠内に閉じこもろうとするのは学問の本来の性格に反している。作家や一般人を含め、もっと幅広くやり取りが出来る技量と度量が学者の側に求められていると思う。

松本清張がどんなに史料を調べ、どんなに精緻に議論を組み立てて疑問をぶつけても学者の側はうんともすんとも言わない、ということを嘆いていたが、その議論に乗ること自体が既得権を危うくするものであるから乗れないというのが実際のところだろう。歴史学に限らず人文社会系の学問はもっとガラガラポンが必要なのが正直なところだと思う。

○山本博文『お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道』(新潮選書、2007)。まだ読みはじめだけど面白い。江戸幕府の「封建的な官僚制」の頂点に立つ「老中」という存在は個人的には非常に興味があって、自分で徹底的に調べたいと思ったことがあるくらいなのだが、専門家がこういう啓蒙的で、なおかつ内容のしっかりした本を書いてくれると全く助かる。現代とどれくらい重なるかとか、そういう「役に立つ」ところを目当てに読んでもあんまり効能はないだろうけど、当時の人たちがどんなことを望み何に心を砕き、どういう人間模様を繰り広げどういう施策を実行していたか、などということを知ること自体が楽しいし、人間に対する理解、特に日本人や官僚というものに対する理解を深める一つの手がかりになる。知るということは純粋に楽しいことだ、少なくとも私自身にとっては。

お殿様たちの出世―江戸幕府老中への道
山本 博文
新潮社

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○哲学は「いかによく生きるか」を教えるもので、人を理想志向にするが、歴史は「人が実際にいかにひどいか」を否応なく教えされるもので、人をペシミスティックにする、と塩野七生がマルクス・アウレリウスについて書いている文章の中で言っていた。哲人皇帝は哲学を学ぶのには熱心だったが、歴史を学ぶのに熱意を持った形跡はないのだという。マルクス・アウレリウスは現在まで最も評判のいいローマ皇帝の一人だが、彼についての唯一の悪評は「偽善者的」であるということだったという。哲人皇帝は妻との間に10人以上の子供を儲け、性生活的にも家庭生活も充実していただろうという。しかし彼の死後、嫡子コモドゥスの治世を暗くしたのは姉のルッチラがコモドゥスの暗殺を企てて失敗し、結局弟が姉を殺し、弟は性格破綻に追い込まれて暴虐な皇帝となっていく、という一連の経緯だったという。

私が教員をやっていたときによく聞いたのは、親が教師、警察官、僧侶などだと子供がぐれやすい、という話だ。つまり「社会的に正し」かったり「人の道を説」いたりする仕事の人の子供はぐれやすい傾向がある、ということで、これは実感としても当たっている部分がある。もちろん例外はいくらでもあるし、そういう親だからよけい目立つということはあるのだが。ただやはり、親がそういうある種の「正しさ」というプレッシャーを受ける職業であれば、意志的に正しく振舞わざるを得ず、敏感な子供がそこに「偽善」の匂いを感じてしまうということは全く素直に理解出来ることだ。そういう点で、マルクス・アウレリウスにもそういうところがあったのだろうなとは思うし、彼が人間の悪に直面せざるを得ない、つまり人間というものに対してある種の諦観をいだかざるを得ない歴史というものにもう少し親しんだら、少しは違ったかもしれないとも思わなくはない。

○まあ学問はなんでもそうだが、特に歴史というものに関しては、人間というものは自らも含めて度し難いものであるという共通認識がある程度以上は必要なのだと思う。歴史に親しんでいると、基本的には絶対悪も絶対善も人間界には存在しないということを理解せざるを得なくなる。というか、人を絶対悪とか絶対善と評価する人を全く信用できなくなるわけで、脱イデオロギー的に、言葉を変えて言えばリアリストになるのが当然なのだと思う。

しかし逆にリアリズムの中には「真実」や「理想」や「救済」は存在し得ないのもまた事実であるので、「真実」への通路はまた別のところに見出していかなければならないのだと思う。

***

追加。

以上述べたようなことでは一義的に語れないのが歴史教育の問題だ。教育の場で人生は空しい、みたいなペシミズム的なリアリズムを教えることは避けるべきだと思う。リアリズムとロマンチシズムとともに教えなければならないのが教育というものだと思う。

歴史教育においては、もっと感動的な偉人伝というか、ある種の理想的な先人について教えていくことがもっとあってもいい。それはある種の思想教育にならざるを得ないので難しいところで、だからこそ歴史問題というのは本質的に歴史教育問題、矮小化していえば教科書問題になってしまうのだが、「理想のない教育」や「特定の理想に偏った教育」が多大な弊害を招いていることは事実だと思うし、論争はどんどんするにしても市民として公民としての基本的な倫理や作法、マナーといったものはもっときちんと身につけていけるような教育はするべきだ。

そうなると良心の問題への国家の介入、という議論が出てくるわけだが、これはつまりは「子供を教育する権利」を持つのは誰か、という議論になる。これは基本的には二者択一で、親か国家か、ということだ。これは実はフランス革命以来の重要な論争テーマなのだ。社会主義国はもとより、革命フランスでも教育権は国家にあるとする意見が近代国家では強い。平等と自由とどちらが重要かという議論と重なる問題だ。英米などは親にあるとする意見が強く、特にエリート層がプライヴェートスクールやホームティーチングに傾くのはそのためだ。

日本では近代的な国民国家創生の必要上、ある種社会主義的な国民的義務教育が行われてきたわけだが、ちょっとそれに慣れすぎて、子供の教育というものを自ら放棄してしまったのではないかと思われる親が多くなっていることが問題だと思う。

私は基本的には教育権は親にある、と思う。家族単位で国籍を返ることは珍しくないし、近代国家の国民としての忠誠義務の対象が変化することを前提に考えれば、究極的に子供の将来に責任を持つのは親以外にありえないからだ。ただ現実問題として多くの親が「お任せ」である以上、国家がある程度責任を持たざるを得ないという現実がある、ということに過ぎないのだと思う。しかし、その責任の範囲が反国家的な勢力によって侵害されてきているために、その隙間に生じたのが多くの教育問題なのであって、逆に言えば国家が教育権を放棄して親に全面的に委ね、親を中心とした地域社会が組織した教育委員会なりが学校運営の主体になるアメリカ的な行き方になるのがある意味での理想だとは思う。しかしそういうことを実現するための土壌がない現在の日本でそんなことをしても大混乱を招くだけだということははっきりしているので、結局教育問題というのは対症療法的に解決していくしかないということになってしまうのだと思う。

ただ、親が教育の最終的な責任は自分たちにあるということをその能力とともに受け止められるような独立した個人性というものを自覚し行使できるようになることは目指すべき一つの理想だと私は思う。

教育に主体を持つ権限は家族以外にも地域社会であるとか国家であるとか職能団体であるとかさまざまなことが考えられはするけれども、どれが主体であれ究極的には一人一人の責任に帰するのが民主主義というものであることはもっと自覚されるべきなのだと思う。
そしてどこかの時点で、教育の主体は受けさせる側でなく受ける子ども自身になるべきだろう。義務教育制度がある以上、その分かれ目は多分15歳ということになるかと思うが、まあこの辺は幅があっていいことだろう。

歴史と違って教育というのは理想ということが重要な位置を占める営為になる。

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