青来有一『聖水』とオルハン・パムク『雪』:カルトの問題と原理主義の問題

Posted at 07/07/26

昨日。午前中図書館で堀江敏幸『熊の敷石』を返却し、青来有一『聖水』(文藝春秋、2001)を借りた。セイライ、と読むとは知らず、検索で苦労したが、あとでネットで見てみると「セーラームーン」から取ったペンネームなのだという。どひゃ。

聖水
青来 有一
文藝春秋

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本自体は短編集、というか100ページ未満の作品が3作とほぼ100ページの芥川賞受賞作「聖水」。受賞作を読み始める。現在37ページほど。

他の作品のテーマもそのようだが、長崎の原爆体験と隠れキリシタンの末裔の存在をめぐるストーリー。広島でもそうだが、そうした体験が土俗性と結びついて一種独特の世界を作っていたのだなと思う。ただ、それ自体が希薄化してくる現代において、そういうものがどのような存在として生きているのか、ということに関心は持てる。

「聖水」を売る教祖的な人物が出てきて、この時代(2000年前後)の日本はまだオウム真理教事件の後遺症を引きずっていたのかなと感じる。そうした状況はおそらく、2001年の911事件で相当変化したのだと思う。宗教がテロを起こすということがオウム事件のショックの本質で、それは理想社会を夢見た左翼運動が凄惨なうちゲバ事件をおこして衰退したこととも重なり、そのあたりはこの作品でも触れられている。しかし、ここで扱われているのはある種のカルトであり、巻き込まれるのは個人のレベルだ。

ところが、911で、宗教は国家による戦争行為に等しいような破壊と殺戮を招く力があるということが証明された。それもカルトではない、れっきとした世界三大宗教の一つが、である。そのショックは大きく、ここで改めてファンダメンタリズムの問題がクローズアップされた。「聖水」で扱われている(と思われる、まだ最後まで読んでないので断言できない)個人とカルトの問題は今でも深く潜行して存在するとは思うが、「一時的な気の迷い」のようなカルトではなく、個々人のアイデンティティに関わる宗教が本質的に持つ原理主義の危険がクローズアップされていることはより深刻な問題なのだと思う。

もう一冊読んでいるのがオルハン・パムク「雪」。


オルハン・パムク,和久井 路子
藤原書店

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こちらの方は現在80ページ。全体で565ページだからまだ7分の1。しかしこれも現代トルコにおけるイスラム原理主義の問題を扱っているのは偶然の一致か。この作品はパムクが「私の唯一の政治を扱った作品」だというもので、東部アナトリアの旧ソ連国境に程近い街、カルスを舞台にしている。知らなかったが、カルスは露土戦争の後のサン=ステファノ条約(1878)でロシアに奪われ、第一次世界大戦後までロシアの支配下にあったため、ロシア風の町になっているのだという。そういう意味では大連のような感じだ。戦後トルコと周辺諸国が支配権を争い、アルメニア人がトルコ人が虐殺し、トルコ人がアルメニア人を虐殺した、というような報復合戦があったようだ。ただ双方とも自らの虐殺は認めず、他方の虐殺を非難しあっているという関係らしい。

カルスは思い出してみればプーシキンの「エルズルム紀行」に出てきたように思う。今手元に全集がないから確認できないが。(プーシキンの時代の主権者はオスマントルコ帝国である)ロシアにとっても重要な戦略拠点で軍隊の駐屯地でもあり、ロシア支配時代には相当栄えたのだという。アタテュルクによりトルコの領土に奪還されたのちも東方交易の中心地として栄えたモダンな街であったが、周辺諸国との関係悪化の中で単なる辺境の一地方都市に転落していったのだという。1940年当時にはアタテュルクの共和主義が一世を風靡しており、女性もスカーフをつけることはあまりなかったのが、60年ころからイスラム復活の動きがみられ、現代ではかなり反動的イスラム・ないし原理主義が支配的となって、スカーフをめぐる自殺や殺人が起こってそれがこの作品の題材になっている。

主人公はイスタンブル出身の非政治的な詩人だが政治運動(70年代の左翼・コミュニズムの運動だ)に巻き込まれてドイツに政治亡命していたのが、母の病と昔の恋しい人が離婚したのを知って帰国し、この辺境の土地へ新聞の特派員としてやってきた。そこで、かつての左翼運動の闘士(恋人の元夫で主人公の友人)が「反動的イスラム」に改宗し、イスラム福祉党(イスラム主義政党)から市長選に立候補している。このあたりの設定が「聖水」の教祖的な人物と重なるのも興味深い。

学生運動(左翼運動)の闘士が挫折し、宗教に走るというパターンは80年代のムー的な世界や一種奇矯なエコロジズムを含めて多くみられるパターンだが、新興宗教であるカルトに走るというパターンと既成宗教の過激な先端にのめりこむパターンとでは周りに及ぼす力、作用が圧倒的に違うと思った。

もちろん左翼運動に参加した人たちの多くは、「もう若くないさと君に言い訳」(by 荒井由実)しながら資本主義に改宗したのだろう。しかし「あるべき世界」という妄想から逃れられなかった人々のうちのかなりの部分が宗教に走ったことは間違いない。そういう意味では80-90年代のカルトも、2000年代の原理主義も、ひょっとしたらグローバリズムもまた、「68年」の後遺症といえる面はあるのかもしれない。

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