戸塚宏「本能の解発」/作家のかっこよさと文学の聖性/ポストモダンと私

Posted at 07/07/04

昨日帰郷。白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』と小林秀雄『モオツァルト』、オルハン・パムク『父のトランク』を持って出かける。特急に乗る前に東京駅で『コミックGUMBO』をもらい、丸の内丸善で『papyrus』(幻冬舎)の8月号を買う。

papyrus (パピルス) 2007年 08月号 [雑誌]

幻冬舎

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『コミックGUMBO』は「ステージガールズ」が載っていたのでよかった。この無料雑誌の中ではこのマンガが一番気になる。

『papyrus』は幻冬舎の文芸雑誌(総合雑誌?)だ。ターゲットがどこにあるのか私にはよくわからない。取り上げられているのはCocco、板尾創路(吉本)、山下敦弘(映画監督)、銀色夏生、石田衣良、東野圭吾、三崎亜紀など。どういう人が読むのかな。やっぱり文芸系が好きな人なんだろうと思うけど、自分の嗜好性とかなりずれていてよくわからない。ただ、感性的には言ってることはわかるよ、というか他のところでこういうことはあんまり言われてないよな、と思うような内容はそれなりにある。あえて意識してこなかった部分の感性を少しは触発させることができるかもしれないと思ったり。特急の中では主にこの雑誌を読んでいた。いやもう半ばお勉強のつもりで。

午後夜にかけて仕事。暇。

***

『月刊MOKU』のバックナンバーを読んでいて、戸塚宏「『本能』が解発(ひら)く生命力」というインタビューが面白かった。いろいろ頷けるところが多い。

最初に「般若心経」の話から入り、仏教は科学だという。どういうことかというと、近代合理主義では理性は正しいという前提が「天動説」的にあるが、「般若心経」では理性を「空」と「我」に分け、執着で作り上げた「我」は誤った理性で、本能(無我)に沿った「空」が正しい理性だとしている、と戸塚は言う。

だから原則的に「本能は正しい」、と彼は考える。しかし本能のままでは問題があるので、本能を完成させる必要があるという。それを彼は「本能を解発する」と表現する。「本能を刺激に対して正しく解き放つ」、刺激によって本能の「知」を解発する、のだという。そしてその「知」が解発でき、完成できるのは小学生までだ、と彼は考える。小学生までにそれを作り損なうと、理性でそれを補い、条件反射でそれに対応するしかなくなる、という。

具体的に言うと、(小学生までに)罰の与え方を間違えると「罪の意識」という本能(の「知」)が芽生えて来なくなり、「人を殺さない」という当たり前のことができなくなってしまう、父親の暴力(体罰ではない)と学校の放任でいびつな罰を与えられつづけた宅間守のようになってしまう、というわけである。

ここで戸塚は自らの方法論、つまり「戸塚ヨットスクール」の限界も自ら認めている。つまり、対象をもっと大きい子どもたちにしている戸塚ヨットスクールでは、本能の「情」と「意」を引き出す、解発することは出来ても、「知」を引き出すことは出来ない、という。このあたり、彼の思考は非常に合理的に思われる。

彼の裁判をめぐって一番問題になったのは結局は「体罰は教育か暴力か」、ということだったようだが、彼の「体罰」観も興味深い。

彼のスクールでは自分が進歩しているときの姿を自分で観察させる。たとえば、ウィンドサーフィンで快調には知っているときは「快感」が出ている。しかし海の上では突然の状況変化も常にあり、「驚愕」「恐怖」「怒り」というものが出てくるという。

たとえば快調に走っているときに突風に襲われたら「驚愕」する。そして次に死んでしまうかもしれないという「恐怖」がやってくる。しかし同時にそれに立ち向かわなければならないという「怒り」が湧いてきて、それが挑戦しようとする進歩につながる、というわけである。

これを「怒り」と呼ぶのは彼独特の表現だと思うが、つまりは孔子が言う「憤りを発しては食を忘るる」という「発憤」の「憤」ということだろう。「気合」が入る、とか状況にやられそうになったときに「ふざけんなてめえこのやろう」とそれまで出してなかった力(エネルギー)が急激に湧いてくる、あの感じのことを言っているのだと思う。でも考えてみればこの感じを「怒り」と表現する人は実は結構いるな。自分はそういうふうに表現して来なかったから最初は少しぴんと来なかったし、「怒り」というのは基本的に「悪」だ、という教育を受けてきているのでそういう人間の本質に関わるところで怒りという表現を使うのに馴染めない感じがあるということだろう。ただそれを「怒り」と表現した方が何だか自由な感じもするし、それこそ気合が入る感じもしなくはない。いわゆる「キレる」という「怒り」とは区別しなければならない。

驚愕の次に恐怖が来る。次に怒りが来て行動するから進歩する、というのが彼の本能解発の方法論だ。恐怖で人は引いて安定しようとし、怒りで人は行動して進歩する、というわけだ。わかりやすい。

まず大切なのは驚愕だ。「いかにビックリするか」という能力を養っておくことが必要だ、というのは全く同感だ。子どもにはビックリする経験をどんどんさせなければならない。スポーツ選手の感動の記者会見の裏には、大きな驚愕の体験があるはずで、それがないと感動もない、というわけだ。

私などはしょっちゅうビックリしたり怯えたりしているのでこの当たりのところはよくわかる。怒って立ち向かう、ということが本能でなく理性で行われるのが「勇気」ということかもしれない。あるいは勇気は怒りそのものか。恐怖で止まってしまって(安定してしまって)行動しなければ進歩はない、というところは耳が痛い。恐怖が怒りに転化しないことも多い。その恐怖が、命の危険にかかわることであれば何が何でも行動するそういうエネルギーが湧いて来ると(少なくとも自分は絶対そうだろうと思う、人のことはわからないがそうでない人もいるかもしれない)思うが、命の危険はないが神経過敏になった自分の存在に不必要な刺激を与えるような程度のものだと怒りというより嫌悪に転化し、生きるエネルギーというよりは単なるストレスになってしまう。(なるほど、ストレスというのは生きるエネルギーが無駄な方向に使われて自分を痛めつけるようになってしまったものなのだ)

嫌悪に転化してしまうような無駄な驚愕や恐怖にばかりさらされているから現代人は生きにくいということなのだろうな。

戸塚は、この三つの重要な不快感、驚愕・恐怖・怒りをいかに大きくするかがポイントで、ウィンドサーフィンはそれにもってこいのスポーツだという。死の恐怖を感じるからこそ、生きようとする本能を解発するというわけだ。これをくりかえしているうちに、情緒障害や人格障害の子供たちにも表情が現れてくる。立ち向かう意欲が旺盛になれば行動が活発になり快感も大きくなる、というわけだ。

戸塚によれば、「体罰とは、立ち向かう意欲としての怒りの本能を引き出す人為的な不快」ということになる。したがって、与える側の本能がしっかりしていなければ出来ないし、質や量やタイミングも重要で、子どもの進歩のために与えるという本質をはずしては絶対にだめだし、キレるタイプの人間には絶対にやらせてはだめだ、という。このあたりの思考は実に合理的で、私などは納得は出来るのだが、受け入れられない人もいるだろうなということは理解はできる。

彼は教育の本質は『小学』に出てくる「安祥恭敬」だという。「安」とは意志をしっかりさせ集中力をつけること、「祥」とは一生懸命己を尽くして行動すること。「恭」は反省、己を知ること、これが今の子どもにはできないのだという。自我が肥大化している子どもが多いということだろう。「敬」は名人を見て目標を知ること。この四つが、「本能を正しく理性に変える行為」なのだという。反省する心や人を敬う心は本能的に備わっていて、これを刺激して高めることで恥が生じ、意志が出来、生きることに立ち向かうモチベーションを生むのだという。

彼は生徒の事故死について反省してはいるが、これはあくまで業務上過失致死であって傷害致死ではないと主張する。つまりここで体罰が教育か暴力かという本質が問われるわけで、体罰一般が暴力ならば体罰の行き過ぎによる死は過失致死ではなく傷害致死ということになる。彼の法廷闘争が長引いたのはこの一点を彼が絶対に認めなかったからに他ならないし、彼の信念からしてもそれはそうだろう。しかし体罰を暴力として、戸塚ヨットスクール事件を忌まわしい暴力事件として葬り去りたい側にとっては逆に戸塚の主張は絶対に認められないということもまた確かだろう。

それもまた、さらに本質を遡ると教育すべきなのは理性なのか本能なのかという問題になる。理性のみが教育の対象ならば、確かに体罰は無用だ。しかし本能が教育の対象であると考えるならば、生き物としての人間をしつけるということにも関わるわけで、身体的な接触を無視しては考えにくい場面も出てくるだろう。

結局、私などは戸塚の主張に頷ける部分は非常に多いのだが、現実の問題を考えてみると、体罰と暴力の区別がつかない人間が与える側にも与えられる側にも非常に多いと思うし、スキンシップとセクハラもどちらの側からもすぐわけのわからないものになってしまう。異常暴力者や異常性欲者が現実に存在するのは確かで、そういう人から子どもを守るためには接触を一切禁止するということが次善の策として出てきてしまうのは止むをないという面もあるだろうとは思う。

戸塚に言わせれば、それこそがそういう「恐怖に立ち止まる」ことであって、敢えて信念を持って子どもに接し、子どもの進歩を引き出すことこそが教育なのに、それが出来ない腰が抜けた態度だということになるのだろう。

だから現実問題としては、本当に信頼できる教師や本当に信頼できる親にのみ子どもを任せるということしかなくなるだろう。そういう意味では公教育はほとんど絶望的だが。

実際には、もっと小さい段階で生きる力が順調に養われていれば、学校時代というある種の「魔の時代」を特に問題なく通り過ぎることも出来るのかもしれない。結局親が、子どもの「生きる力――上記のような意味で――を伸ばす」ということに主眼を置いて育てる意識を強く持つしかないのだろう。子育てをした経験がないから私にはなんともいえないのだが、教育に携わった経験から言えば「高校では遅すぎる」ということは確かだ。

***

『papyrus』を読んで思ったことを思い出した。

銀色夏生との対談で、パピルスの編集者が編集の仕事の楽しさとして「圧倒的に素敵だなとかすごいなとか、これは自分にはまったくないなと思うものを持ってる方とか、ものを作ってらっしゃる方に会って話をして、場合によっては原稿をいただいたりする時に感じる、かなわないなという気持ちと、その人と仕事が出来る恍惚というか、そういう瞬間はやっぱりすごく自分が素敵なことをしているという気持ちになる。何らかの形でそれが世の中に出ることに自分がかかわるということに喜びがある」ということを言っていた。

実は私はこれはすごく意外な感じがした。作家というのは「カッコイイ、すごい、かなわない」と感じるような職業だと私は今まで思っていなかったからだ。ていうか、そういう感性がもともと私には足りないのかも知れないんだけど。

本を読んだり文章を書いたりするのはいままで自分にとってはすごくあたりまえのことで、だからどう、ということではなかったということなんだろうなあ。自分に出来ないスポーツをやる人とか、役者とか、そういう人ってかっこいいなと思ったことはあるが、作家というものを尊敬する気持ちがなかった。そこがいけないんだなと思う。(上記戸塚のいう「敬」だ)

むしろ作家、現代作家というのはすごいものを書く人たちというより、変なものを書く変わった人たちという気持ちが強かった。映画監督なら「すごい――すごくない」という基準がはっきりしていて、誰がなんと言おうとこの人は、この映画はすごい、というのははっきり言えるのだが、作家だとあんまりはっきりそういう基準がない。そういう意味ではまだ私の中で小説の読みが映画に比べても圧倒的に足りないんだなと思う。これは量的なものばかりではなく、質的なものでもある。

ドストエフスキーよりプーシキン、ヘミングウェイよりフィッツジェラルド、という指向性も多分その辺のところと関係があるかもしれない。文章の生み出すある種の「聖性」というものに多分無感覚なんじゃないかという気がする。

うーんしかし、そう考えてみると、そういうものを感じたことがないわけじゃないんだよな。たとえば山田詠美の『ベッドタイムアイズ』の文なんかは、やはりある種の聖性があると思うし。山田のどの作品にもあるとは思わないけど。

多分作家が文章の中に捕まえるべきなのは、そういうある種の「聖性」なんだろうと思う。世界の現代作家の多くは文章の、文の中に聖性をつかまえる、特定のフレーズの中に聖なるものが見出せる、そういう書き方はせず、プロットやストーリーの中にやりきれない現実や喪失感のようなものを捉えようとするものが多いのではないかとも思う。イシグロ、クッツェー、村上春樹、などは一つのフレーズの中に聖なるものがある、というタイプの文章ではない。

考えながらというより思いつきで書いているので全然まとまりがないが、ドストエフスキーやヘミングウェイなどの近代作家と今あげた現代作家の違いというのはそういう「文章が生み出す聖なるもの」を信じられるかということにあるのかもしれない。日本の多くの作家は多分、まだ聖なるものを信じてるんじゃないかという気もする。でもクッツェーとかもそういう意味では分らないところが多いんだよなあ…彼なりの『聖』はやはりあるのかもしれないとも思う。

イシグロで言えば、『日の名残り』はナチス協力者の問題に関わり、『わたしたちが孤児だったころ』は中国軍閥の問題に関わり、聖なるものそのものが存在するかどうかとか、聖なるものと悪との不幸な結合関係とか、ある種の歴史性の中にそれを切り込もうとしているように思うが、『わたしを離さないで』では臓器移植と臓器移植用に育てられたクローンという問題から歴史性を離れて人間性の本質を解剖しようとしていて、よりその問いが純粋さをまし、きりきりヒリヒリしたものになっているような気がする。

村上は逆に、といっても『ねじまき鳥クロニクル』以降しかまともに読んでないから前とは比較できないけど、ノモンハン事件とか第二次世界大戦とかむしろ歴史性の中に何かを読み取っていこうという方向になっているのだろう。その歴史性そのものがステロタイプなのであんまり気に食わないが、「探る」という姿勢は同じだろう。ただ、なんというかよく理解できない楽観性のようなものがあって、その辺が村上にちょっと感じる胡散臭さのようなものに通じている気がしないでもない。

まあいずれにしても、そういう最先端の問題に取っ組んでいるということはかっこいいことなんだろうなとは思う。やっぱりもっと現代小説を読まないとだめだなと改めて思う。そういう意味でかっこいい小説を書きたいものだ。

***

友達とメールをしていて、私はつくづくポストモダンの影響を受けなかったんだなと思った。私は1981年に大学一年なので結構もろな年代なのだが、ポストモダンの雰囲気の中で作られた芝居や映画やそういうものはもちろんすごく面白いと思ったし好きだったのだが、ポストモダンの思想そのものは(脱構築とかスキゾとかのアレね)全然本気にしてなかった。面白いものを作る方法論としてはそれを使おうとして、というか使い損ねて振り回された気はするが。

だから、私の周りではオウムとか統一教会に取り込まれたり取り込まれそうになったりする人がたくさん痛んだけど、そんなものになぜ魅力を感じるのか全然理解できなかった。あんなもの一目見たら「ヤバイ」ものに決まっている、としか思わなかったし。それがなぜわからないのか不思議だったのだが、それが本能的な「知」というものかもしれないと思っている。そういうところが合ったから上記の戸塚の考え方も結構納得が行ったのだが。それがなぜヤバイか本能的に知ることが出来たのはなぜかというと子どものころの私の回りにはもっとヤバイものがあったから・・・かもしれない。近づいていいものなのかどうかということは、結構敏感になった。よく野犬の群れに追いかけられたりしたし。(それはちょっと違うかも)

だから、私は80年代がとても懐かしいのだけど、それは私が80年代を完全に「いいとこ取り」だけをしたということなのかもしれない。あのポストモダンの狂騒が覚め、90年代のオウム事件や2000年代の拉致問題の表面化や、中国問題の発生などが出てくると、あのころ結構正しかったものが相当ひっくり返っていることもまた事実なのだ。そういう意味ではかなり痛い記憶を持ってる人も多いのかもしれない。私はあのころの芝居や音楽や映画が好きだった、楽しかった、そういうことしか考えてないから能天気なのかもしれない。

まあでも(少なくとも日本の)文芸理論などでは、『ユリイカ』などを読んでいても思うが、結構まだポスト構造主義は残ってるんだよな。浅田彰はいろいろな新人文学賞の選者になってるし。ポスコロ、カルスタ、フェミも結局はその流れだし。現実的な有効性はもう無だと思うが、人文社会系の学問はそう簡単に流れが変わらない。

なんというかいろいろな意味で孤立をまた改めて感じたりするが、まあそういう人間なので仕方がない。いったいどういう人間なのか。変なやつだなあ。こんな自堕落なことかいていると、少なくともかっこいいとは思われまいよ。

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