村上春樹/作家とはどういう人間か

Posted at 07/06/11

昨日の夜には雨が上がったと思っていたのだが、朝起きて外を見ると路面は濡れていた。紫陽花も色鮮やかになってきたし、雨の季節がやってきたのだと思う。改修工事は続いていて、今週はベランダの床面の塗装。今朝ベランダを見たら、エアコンの室外機が持ち上げられて、細い鉄棒の四本足の台の上に乗せられていた。

シューベルトのピアノ三重奏曲第一が気になって、今朝もミュージックプラザを聞く。金曜日午後の再放送が月曜朝なのだ。新しいCDの紹介と言っていたから、CDは出ているはずなのだけど、つまり山野楽器では売り切れだったと言うことだ。(確かめなかったけど)急に思いついてカセットに録音する。そこら辺にあった名前の書いてないのに録音したのだけど、今聞いてみたら下に録音してあったのが消えてなくて、不思議なミックスミュージックになっていた。(笑)やはり慌ててはだめだ。もう少しインゼマールを聴いてやはり不満だったら改めてブラレーの演奏を買おう。クラッシックは演奏ごとに違うのだから、欲しいものをピンポイントで買わないとだめだとは分かってはいるのだけど、つい曲目だけ同じものを買ってしまう。やはりそれではだめなんだ。

シューベルト:トリオ集
カプソン兄弟, ブラレー(フランク), シューベルト
東芝EMI

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それにしても、フランスの演奏家の演奏は、いつも思うけれども色彩ゆたかだなあと思う。フランス人の音楽というのは、作曲にしても演奏にしてもとても絵画的な印象がある。逆に、ドイツの画家の絵は、私にはとても音楽的に見える。特にクレーなんかそうだ。(国籍はスイスなのかな)それはやはり文化的特性のようなものかもしれない。

昨夜はとても疲れていて、あまり仕事ははかどらなかった。『父のトランク』も慎重に読んでいるので、あまり読み進められない。小説を書くようになって、他の小説のことをいろいろ思い出してぱらぱらと読み直してみたりしている。『村上春樹の知られざる顔』で、村上が日本文学の凝った文体を脱構築したくて、チャンドラーなどミステリーの文体に耽溺した(目的というわけではないが、何かを求めて読んだことは確かだろう)という話があったが、確かに私の書くようなものも村上のいうような意味での日本文学の伝統からは断絶しているように思う。だからと言って「村上のように」書くわけではないが。ただいろいろな意味で、村上というのは自分にとって対峙すべき作家だという気が最近特に強くしてきている。

文学界 2007年 07月号 [雑誌]

文藝春秋

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私はもともと、村上の書くものはよくわからなかったから読まなかったし、『ノルウェーの森』以降は「流行作家だから」読まなかった。というか、そういう意味での村上的な世界というものにはあんまり関心をもてないのだ。私が面白いと思うのは、『ねじまき鳥クロニクル』以降の村上でしかない。『ねじまき鳥クロニクル』も読んだのは昨年だけれども、強い衝撃を受けた。やはり90年代前半の作品。このあたりの時期というのは何かが大きく変わっている時期なのだと改めて思う。このあとの作品は、『神の子どもたちはみな踊る』も『スプートニクの恋人』も『海辺のカフカ』もどれも面白いし強く引かれるものがある。そして、一番根底のところで私の根底にあるものと相容れないものを感じて、だからこそ客観的に見ることが出来るのだとも思う。

『ねじまき鳥クロニクル』も評価としては第二部までで十分で、第三部はよけいだという評価もあるようだが、それはそれで理解できることではある。しかし、私が読み返してみたくなるのはむしろ第三部『鳥刺し男編』だ。一番惹かれるキャラクターは、喋ることをしない端正な若い男、シナモンだ。これはもちろんそのキャラクターというよりは、作品の構造の中で彼の演じる役割というものに惹かれると言うことだろう。どういう構造なのかとうまく説明することはできない(説明できるなら小説にする必要はない、というのが現代小説というものだろう、もちろん多分、民話の時代から「お話」というものはそうだったのだ)けれども、第三部は非常に構造的なつくりになっていることは間違いない。そしてその構造は徐々に破壊されていく。そうした形でのドラマツルギーがそこにあると言うことなのだと思う。

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編

新潮社

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言葉を変えていえば、シナモンという存在は、というかここでは主人公のオカダ・トオルも含めて、民話的な存在になっていると言ってもいい。トオルが自分の役割を分析したりはしているが、それは現代小説だから仕方がないともいえるし、案外民話などの中でも「賢い」とされる存在(王女の場合もあるし、娘の場合もあるし、若者の場合もある)は自己の置かれた立場を分析したりはしている。そういうある種の、「現代の民話」のようなものを、自分も書きたいと思うからだろう。

民話はもともとけっこうおどろおどろしいものであることは最近知られるようになってきたが、村上の作品の中でのおどろおどろしい部分、たとえばノモンハンだとか皮剥ぎボリスだとかワタヤノボルとの暗闘であるとかそういう部分の破壊性、暴力性というものは、村上自身も言っているように、村上の持つある種の狂気性のようなものの現われだと言っていいのかもしれない。イヤもちろん、狂気というものはそういうエキセントリックな場面だけに現れるわけではないのだけど、そういう場面に私がある種の狂気を感じることもまた事実だ。村上自身は必ずしも同意しないかもしれないが。

『ねじまき鳥クロニクル』とそれ以前の作品を画す一線は、社会とか国家とかに積極的にかかわろうとするポジティブな部分にあると言う、村上自身の言説はその通りなんだと思う。「これはポジティブな作品だ」という村上の言葉は覚えておきたい。彼はやはり、彼の世代のテーマである、「近代日本に対する批判」というものからは、どうしても遁れられないのだと思う。近代に対する批判が現代であるとするなら、彼は現代作家だし、近代=モダンであるならばポストモダン作家でもあるだろう。

書いているとはっきりしてくるけれども、彼が社会や国家に対する批判を持っているのに対し、私が持っているのは根本的には文明に対する批判なのだと思う。その文明の最も先鋭的な部分は、村上らの活動もあって、近代よりも現代により強く現れていると私などは思うから、私などは、場合によってはむしろ「現代」の攻撃から「近代」を擁護することにもなる。しかしそれはある意味分裂した行為でもあるから、ある意味私はモダニストにも見られるのだとも思うし、単なる保守とか右翼とか伝統主義者にも見られるのだと思う。もちろんもともと保守とか右翼とか伝統主義というものは近代文明批判が根底にあるわけだからけっこう近しい部分がないとはいえない。ただそれがすべてではないのだが、私の各地からの不足から、またあるいは私自身の思想の展開の不足から、そういうものがうまく語れていないのが現状ではある。

あまりこういうことについて語るつもりは無かったのだけど、このあたりは考察を始めると書かずにはおられないところがある。

もともともう一度『ねじまき鳥クロニクル』を読みたくなったのは文体を見たかったからで、自分の持っている印象と実際の文体のずれを確認したかったのだ。と言っても自分の文体とのからんでのことだから、やはり村上のようには書かないし書くつもりもない、ということが確認できたからよい。ただ村上のすごさは読めば読むほど感じることも再認識はさせられた。

ほかに読みたくなって読み返したのが橋本治『愛の矢車草』(新潮文庫、1987)と近藤ようこ『見晴らしガ丘にて』(ちくま文庫、1994)だ。私は『愛の矢車草』の表題作が昔からものすごく好きなのだが、それがなぜなのかはよくわからなかった。昨夜から今朝、読み返してみて、突然その理由がわかった。自分があるところでものすごく深く傷ついていて、ある意味その補償作用としてこの作品を強く求めて、そして得られていたのだということに。そのことが自分の人生の中でものすごく大きな転換点になっていることを、私は見ないようにしてきたのだということにも、まじまじと見つめ直さされた。自分の中で今大事なものの柱が、それに関連して構築されてしまっている。そんなに深いところに食い込む作品だと、今まで思っていなかった。確かに好きではあったのだけど。読まずにはいられないのが読者というものの業であるとしたら、私はあまりに心にそれを刻み付けすぎたので、実際の本を読む必要はなくなっていたのだが、改めて読み直してみてその深刻さに気がついたと言うべきか。無意識がやっていることの巨大さには、意識している自分の存在など実に小さなものであると言うことを改めて思い知らされてしまった。そんなことは、普段人に対しては感じていても、自分に対して思うことはなかったのに。

愛の矢車草―橋本治短篇小説コレクション

筑摩書房

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リンクは筑摩書房版

『見晴らしガ丘にて』では「なつめ屋主人」が好きだ。中年の風采の上がらない恋愛。そのほのぼのとした味は昔から好きだったけど、最近は何だかリアルに感じられるようになって来た。まあそれだけのことだが。

見晴らしガ丘にて

筑摩書房

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最近読んでいて影響を受けているなと強く感じるのは女性の作家ばかりだ。例外は村上と橋本なのだが、橋本は普通の男性作家とは違うし、村上もまた彼の持つ特殊な狂気性というか、そういう点で普通の男性作家とは違う。私は女性ではないし、女性の感じることは分からないので、逆に自分にとっては特殊なアングルから世の中を見ていて、そのことが刺激的だということはあるのだけど、男性の作家があんまり焦点を当てて描かない部分に私自身が強く関心を持っていると言うところが明らかにあって、もちろん人によるのだけど、そのアプローチの仕方が参考になることが多いのだということだと思う。外国の作家だと男女差はあまり感じないのだが。(いやもちろん苦手な作家は男にも女にもいる)

作家とはどういう人間のことをいうのか、ということをちょっと考えていたのだが、読まざるをえないから読む人間が読者だと言うものと少しにてはいるけれども、書かずにはいられない、書くことによってしか自分を支えることが出来ない人間が、本質的には作家なのだと思う。才能の有無にかかわらず。もちろん社会的に作家として容認される存在は作品が商業的に流通する人間のことを言うわけだが、もっと本質的な部分では、作家というのは書かずにはいられない、書いていないとやがて自己も自我も生活も人生も崩壊してしまう、そういう人間こそが作家というものなのだと思う。書くことに依存している人間か、という批判もあるかもしれないが、それをいうなら野球の選手やスポーツの選手もまた野球から離れては少なくとも今は生きていけない、スポーツに依存した人間だということになってしまう。中田がサッカーをやめたのは「サッカーに依存したくない」という思いがあったからなのではないかという気もするのだが、だとすれば彼はちょっと勘違いしている気もしなくはない。

しかし、結局依存ということと魂がそのことを要求しているということとは紙一重のことかもしれないという気もしてきた。「依存」だと思うとそれから脱しようとしてしまう。もちろん薬物などに依存するのは脱した方がいいが、書くことやスポーツのような主体性を必要とする行為ではそれから脱しようとしてもそれが魂から発するものであったら逃れることはできないと私は思う。もしそれを依存だと言うのなら、おそらくは徹底がたりないのだ。依存といわれようとなんといわれようと、書くことこそが生きることなのだと言い切れるところまで行かなければ、自分の魂を満足させることはできない。それを恐れて理性的に振舞おうとするから中途半端になり、依存しているのではないかなどという無用な悩みを抱えていつまでも自分が見えてこず、見当違いの自分探しを始めたりすることになるのだろう。受身であれば依存と言ってもいいけれども、書くということは受身では絶対出来ない。受身でプレーしている野球選手などだれひとりとしていないだろう。作家にとって真の行動とは「机に向かって自分の内部に向かうこと」そのものなのだと言うオルハン・パムクの言葉は実に力強い。

日本にはそういう意味での作家は実際ものすごくたくさんいるということが、ネットによって実証されつつあるのだと思う。その中で商業的に流通しうるものは極僅かだろうけど、非商業的に十分流通できる現状が望ましいのかどうかは実際にはよくわからない。ただ、みなそういう事態にまだ不慣れであるということは多分いえるので、これから落ち着き先が決まっていくと言うことなのだろう。

長くなったけれど、ときどきこんな朝もある。

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