蓑田胸喜と日本思想のよりどころ

Posted at 07/06/05

昨日。午後外出。銀座に出て、散策。教文館で『諸君!』を立ち読み。竹内洋と佐藤優の蓑田胸喜についての議論が面白かった。竹内のグループ(ということは始めて知ったのだが)では佐藤卓巳が情報統制官・鈴木庫三についての研究(『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』、中公文庫)もあり、戦前期の言論について真摯な研究が行われているのだという頼もしさを覚えた。

蓑田胸喜全集

柏書房

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この23万もする簑田の全集を個人で購入した数人のうちの一人が佐藤優なのだという話はへえっと思った。大東亜戦争=太平洋戦争に関しては佐藤は大川周明を評価しているのは知っていたが、蓑田に対する評価もかなり高い。といっても立花隆のように狂人として切って捨てたり、丸山真男のようにただ蛇蝎の如く忌避したりするのではなく、一歩踏み込んで人間として理解しようという姿勢があるというだけで、彼の思想や姿勢に対してはその行動の危険性やもたらした結果の重大性を踏まえつつ厳密に分析して検証しようという立場である。日本の第二次世界大戦期の特に思想問題についてはそうしたことさえなされてきておらず、むしろ封印される傾向があったのだが、戦後60年以上たってようやく正面から研究する機運が出てきたのだと考えてよいだろう。

日本の左翼思想が理論信仰に行くのに対し、日本の右翼思想はそのよりどころを最終的には和歌に求めるという話はなるほどと思った。和歌は確かに日本的な、思想以前の何かを表現するものであることは確かで、最近は神社などでもよく御製(主に明治天皇の)が掲示されていることがあるが、日本思想の「経典」というのは万葉・古今以来連綿と続く膨大な和歌群であると考えると大変分かりやすい。バラモン教―ヒンドゥー教もその根本思想はヴェーダの詩群によって表現されているわけだし。それが芸術として固有の力を持つか、政治的な力を持つかは「解釈」にかかっているわけで、つまりは国学によってかなりはっきりとした道がつけられ、続いていると考えてよいのだろうか。右翼団体の集会でも御製が詠まれることが多いという。こうした指摘は日本思想を考える上でかなり重要な指摘だと思う。そういえば幕末期でも志士は必ず辞世を詠む。


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