日本的精神/日本外交の力/教育の本質的課題
Posted at 07/03/21 PermaLink» Comment(0)» Trackback(0)»
インターネットラジオ第9回配信しています。
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昨日。朝いろいろやって10時過ぎに家を出、日本橋で降りて東京駅へ歩く。空は青空。切符を取ったあと本を買いたくなり構内の書店を探して『中央公論』4月号を買う。もっと北口に近い方にあると思ったのに見つけられず見つかった書店は南口の近くだった。弁当を買いに北口の方に引き返しているとき、もう一つ書店を見つけた。改札の中に二つもそれなりの規模の書店があるのだ。エキナカがこれだけ充実しているのはやはり東京駅が一番だろうか。
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『中央公論』わたくし的注目記事。
○内田樹「"成熟"の心理を考える」日本人を考えるための20冊に司馬遼太郎『竜馬が行く』を挙げ、明治維新前後の動乱期の「敗者を含めて若死にした青年たちの肖像を描くために明治以降の作家たちが言葉を惜しまなかった」ことによって、戊辰戦争の戦死者が祟りをなさないのだ、という。もちろん斜に構えた言い方だが、そうした作家たちの言葉が「近代日本」を描き挙げ、それが近代日本の像を作り上げてきたのだということは指摘のとおりだと思う。だからこそ、第二次世界大戦の敗者たちについてもっと描かれるべきなのだと思う。硫黄島をはじめ、もっと注目されるべきものはたくさんあるだろうと思う。そのあたり、内田の視線は少々冷たすぎる。
「日本的な精神は、西洋と日本のあわい、政論と遊蕩、学殖と落語のあわいを遊弋する。日本人は本来、この「間をふらふらして、腰が落ち着かない」ときに最高のパフォーマンスを発揮する。だから、「文武両道」すなわち「母性的包容力と父権的威信」のあわいをバランスよく揺れる能力もまた、日本人が成熟の証と見なした資質であった。」という指摘も面白い。内田の表現は面白いのだが、どうもその本質に過剰性があり、面白いけどどこまで本気で言ってるのかな、という気がすることが多い。あんまり過剰に面白がるとただ振り回されるだけのような気がする。ただ、そのバランスの取れた好例を内田百閒に見るということはなるほどと思う。
○ジョージ・マッケンジー=城島健司(『世界の日本人ジョーク集』2007)
○佐藤優・手嶋龍一「外務省は"武装解除"される」。この二人の対談は外交の実態を考えるには参考になることが多い。
手嶋「日本外交の強さは、条約を紡ぎあげることにのみある…近年外務省が作成した外交文書を見ていると、…危機感をもたざるを得ません。」
佐藤「北方領土というのはスターリニズムの残滓です。」手嶋「懐かしい言葉だなあ。」…佐藤「ロシアスクールの連中は、太平洋戦争の処理こそが自分たちの仕事であるという発想なんです。われわれ日本は、ソ連との関係において侵略されたと。この単線的な思考の中で仕事をしていて、冷戦の処理という発想がないんです。…北方領土問題は…勢力均衡外交がきちんとできる人と、ロシアスクールの伝統を統合し、「二重の戦後処理」というかたちで取り組む必要があるのです。
なるほどと思うことがたくさんあって興味深い。日米同盟が主軸という線は動かないにしても、日ロ関係を打開することによって日本は対中対米等に関してもよりフリーハンドを確保でき、有利な交渉をしていくことが可能になると思う。簡単ではないだろうが四島返還を実現した上で、より強固な外交基盤を築いておく必要があると私も思う。
○養老猛「鎌倉傘張り日記」。現代は大衆消費社会である。それにおける教育の成り立ち難さをこう説明している。「消費者の行動は、等価交換を原則とする。つまりは物を買うという行動、交換には時間性がない。乱暴に言えば、交換とは一、二の三なのである。教育から時間を抜いたら、何も残らない。教育の本質は、諸行無常の世界にある。人を変えていくのが教育だからである。そこでは等価交換は本質的な矛盾なのである。」
「私」というものが「変化」するところに「教育の本質」がある、という指摘はそのとおりだと思う。『バカの壁』などでもそういう記述があったが『バカの壁』を読んだときには何を言いたいのかあまりよく分からなかった。教育というのは本質的に交換経済の消費行動になじまない。「授業という商品の価値は子どもにはわからない。なぜならその価値は、長い時間を経たあとでないと、理解できない。」からだ。その理解できないものを無理やり買わされる。その時「消費者」のとる行動は「値切り」にならざるを得ず、授業における生徒の態度の悪さは根本的には「値切り」だというのである。(これは内田樹氏の著書の紹介として説明している)つまり、教育が成り立たなくなっている、学級崩壊とか学校崩壊とかの根本的な原因は、子どもが社会で役割を持ったいわば「生産者」として学校に来るのではなく、「消費者」として学校に来るようになったことにある、というわけである。
この指摘は私の経験から言っても頷けるところはある。すべてがそれで解けるかどうかは別の問題だが、態度の悪い生徒というのが自分を高め、社会に有用な人間になるという意識が持てない生徒に多いことは間違いない。「これを勉強してなんの役に立つの?」という問いには本質的には「いいからやれ」という答えしかない。それを勉強してそれを本当の意味で理解したときになって、つまり子どもが「変化」して初めてその価値がわかるものだからである。一生わからない、つまり「変化」しない人もいるかもしれない。そういう意味では、「いいからやれ」をどのように表現して「変化する前の子ども」に取り組ませるかが教育の本質的な課題なのであって、これはそう簡単なことではなく、すべての教育という営為の根本的な課題がそこにあることは子どもを育てることに関わるすべての人が理解しなければならないことだと思う。
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午後から夜にかけて仕事。一人遅れてきた人があり少し忙しかった。
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