『ウェブ人間論』(3)すばやい反応/手嶋・佐藤『インテリジェンス 武器なき戦争』

Posted at 06/12/18

昨日。ずいぶん時間をかけながら『ウェブ人間論』の感想を書いてアップしたのだが、今朝見ると早速著者の梅田氏自身のブログで取り上げられていて、驚いた。発売すぐの書籍を読んで感想を書き、それがその日のうちに著者の目に止まってレスポンスがあるとは、まったく凄い時代になったものだと思う。

ウェブ人間論

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いろいろ書いたり読んだりしながら思ったけれども、ウェブの進化というものは「人間の生き方」というものに否応なくか主体的にかは別として、変化を促すものであることは確かだと思った。今まである程度のパターンにしたがってしか生きられなかったものが、工夫次第では本当にさまざまな「生き方の可能性」が生まれてきているのだと思う。私なども昨日も書いたが古い枠にどうしても囚われているところがあって、それを一つ一つ打ち破っていくのはかなり面倒な作業なのだが、もはや40代とはいえこのような面白い変化の時代に生きることが出来ているのは確かにラッキーなことだと最近思えるようになってきた。そこには、やはり梅田氏のメッセージが生きているんだろうなあと思う。

一方では、インテリジェンス的な、情報戦略的なものの意味も今後もっと高まっていくだろう。しかし、梅田氏のグーグルに対する考察などにもあるように、既存の社会における価値自体がまた大きな変容をきたしている可能性もあるこの時代において、何を守り何を推進するための「戦略」なのかということも気がついたら変わっているということもあるかもしれないと思う。タコツボ的に一つのことをやっているうちに世の中に出てみたら既に浦島太郎になっていた、というようなこともまま起こる気がする。わたしが教員をやっていた10年間に、一般社会はなんだか全然変わっていた、本当に置き去りにされた気持ちになったのを思い出す。1999年。

ブログなどを拝見していると梅田氏は将棋が強いそうで、将棋関係のコメントも諸所でされているようである。わたしは将棋は並べることができる程度だが、棋士の書く本を読んだりテレビで対局を見たりするのは結構好きで、そういう形での興味は持っている。何というか、梅田氏の「読み」の深さとか「サバイバル性」のようなものは「将棋」という狭義の持つ性格と関係があるのではないかという気がした。まあ、これは余談。

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手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス・武器なき戦争』(幻冬舎新書、2006)も読了。こちらはインテリジェンスの専門家同士が虚虚実実の会話の中からインテリジェンス(情報戦略、外交や軍事における)活動の実態や今まで語られてきたことの虚実皮膜について論じ、またこれからの日本の情報戦略についての意見を述べ合っていて、非常に興味深い。面白いと思ったところをいくつか。

インテリジェンス 武器なき戦争

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インテリジェンスに才能があるとすると、その最も大本になるところは「好奇心」であるらしい。「わたしは権力の中枢に近づいて真実を知ることが面白かったんです。好奇心に従って、誰も知らない本当のことを知りたいと思った」と佐藤は言うが、やはりそういうところがないとこういう活動は出来ないだろう。

ゾルゲ事件の分析では、ゾルゲはソ連とドイツの二重スパイであるけれども、どちらかというとドイツに有利に働いている、という判断は意外だった。ゾルゲはスパイとしては中の上くらいで、それを使いこなしたオットー大使が優れたインテリジェンス・センスを持っていた、などというのもわたしには判断しかねるけれども興味深い。

イスラエルについて、「彼らは、相手がイスラムである以上、穏健派だろうが過激派だろうが関係ないといいます。エルサレムがイスラエルの首都であることは、どんなに世俗化したイスラム教徒でも絶対に認められないことだ。しかし、この世の終わりまで生き残ることが旧約聖書に書かれたわれわれの使命だから、全世界に同情されながら死に絶えるようなシナリオは選べない、とかなり残酷なことを言うのです。」という。この話は違うところでも読んだが、要するにユダヤとイスラムは両立し得ない、というシニシズムに立って彼らはパレスチナにいるのだ、ということを理解しておかなければならないということなのだろう。

米ロ関係は共和党政権のときのほうがいい、なぜならば「民主主義のスタンダードをロシアに求める点では民主党政権の方が厳しい」から、というのもよく理解できる。クリントン政権の時のポリティカル・コレクトネスの世界への押し付けは私自身本当に嫌悪感を持ったものだが、そういう点では共和党政権の方が私自身も好感は持てる。

クリントン政権の甘さは、スーダンにいたアルカイダをスーダン政府から引き取ってくれといわれたときに断っているということに現れている、という話も具体的なことは知らなかったがさもありなんという感じはした。

日本の外務省では条約局が非常に強い権威と権限を持っているという話もへえ、と思う。確かに条約というのは相手があることだから国の内部の権力関係だけでいじれるものではない。条約局の解釈が絶対だというのはよくわかるが、佐藤はそういうことも含めて政治家がきちんと判断する仕組みを作らなければならないということを言っていて、それは日本の仕組みが民主主義である以上、そうあるべきだとは思う。要するに官僚の側が政治家を信用していないという部分が強すぎるのが日本が政治的に抱えている大きな問題の中でも最大のものであるとわたしも思う。しかしそれは構造的なもので、マスコミも官僚のリークによって政治家を叩くことで部数をはけさせる、という構造を持っているから、叩きやすい顔のある政治家は叩くが叩きにくい顔のない官僚のことについては書けないしろくに調べてもいないのではないかという気がする。

そういう意味でいうと佐藤という異端の存在は日本の官僚界に大きな風穴を開ける可能性があり、非常に面白い。

そのほかいろいろ面白いところもあるが、全部書いても仕方がないのでこのくらいにしておこう。また何かに関連して言及することはあるかもしれないが。

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昨日買ったのは村上春樹『バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』(中央公論社、1996)。フィッツジェラルドの翻訳書なのだが、著者が村上春樹になっている。翻訳自体が、ある種のフィッツジェラルド論である、というふうに言うことも出来るのかもしれないが、著、というのはどうだろう。

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉

中央公論社

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