フジコ・ヘミングの版画/フィッツジェラルドの「信仰の告白」

Posted at 06/12/10

昨日帰京。昨日の仕事は午後から7時半までだったが、比較的暇だった。ただこちらの体調があまりよくないこともあって、うまく進まない部分もあり。しかしとにかく上京できるということで精神的に妙に興奮状態になり、いまだにややバランスを失っているところがある気がする。とはいっても月曜にはまた田舎に戻らなければならない。それまでにやらなければならないこと、やりたいことがたくさんあって、とてもやり切れるかどうか分からないのだが、これがまたバランスを欠いた精神状態なので一体どうなるのか見当がつかない。

とにかくやりたいこと、やらなければならないことを片っ端からやる。ただ、それをやっている間にもどんどん興味のあることが出現してきてしまって、わき道に反れるという典型的なパターン。何かをやり遂げるということは、何かをやらないことによってしか達成されないということを嫌というほど分かっているはずなのだが、結局本質的にそういう禁欲の美徳に欠けているのだ。それを自分にうまく押し付けているときには何とかなることはなるのだが、それだと精神的にも肉体的にも変調を来たしてくる。それを何とかバランスを取りながら続けているので、あまり欲求を抑えすぎると自分がどうなるか分からなくて困る。

朝少し何か食べようと思ってコンビニに行ったらビックコミックの新しい号が出ていたので買うが、いまいち面白い作品が少ない。『天上の弦』と『男の操』が終わってしまったことは大きいな。『宇宙家族ノベヤマ』は時々しか載らないし。最近『築地魚河岸三代目』も『ダブルフェイス』もあまり読む気がなくなったので、なんだか今ひとつつまらない。

昼前に友人に電話して話しこむ。何しろ20年来の友人なので話が佳境に入ると際限がなくなる。気がついたら二時を過ぎていた。まあだいたい話したいことは話したという感じだったので終わりにして、出かける。食事をどうしようかと思いつつ歩いていたらラーメン屋が目に入ったのでラーメンと半チャーハンで済ませる。店を出てから気がついたら舌が焼けていた。あれはどうしてラーメンを食べているときには気がつかないのだろう。

地元の書店で本を物色するがこれというものはなし。地下鉄で大手町に出、丸善をぶらつく。佐藤優の著書がいくつも出ていて、どうしようかと思うが、別に彼の本だからほしいというほどでもない。最近少し露出しすぎじゃないかな。それしか収入源がないという話もあるが、彼にはもっと本質的なところで日本国のために役に立って欲しいと思うのだが、なんだか最近の彼を取り巻く状況はどうも納得のいかないものがある。

上の階に上ろうとしたら一階のエスカレーターの袂のところでフジコ・へミングの版画展をやっていた。なかなかいいなと思い、安かったら買ってもいいかも、と思ったのだけど、これ、と思ったのが19万。ちょっとなあ。丸善の日本橋店が閉店のときの美術品の在庫一掃のとき、有元利夫の絵が10万を切って売っていて、買うかどうかものすごく迷っているうちに売れてしまったことがあったが、有元の絵で10万切るのに、ピアニストの版画で19万というのはちょっと納得がいかない。まああの時は特別だったんだろうなあと今更ながら判断の遅さを後悔する。(ただこれは、彼女の作品がよくない、と言っているのではない。とてもよい作品だと思う。自分の中で、有元の作品とのバランスが取れないからこう書いているだけだということをお断りしておきたいと思う。)

3階に上り、英語関係の本を探す。買ったのは駿台文庫の『新・基本英文700選(CD2枚つき)』と旺文社の『英検1級語彙・イディオム問題500』の二冊。最近、英文そのものを暗記するということの意味を感じていて、700選はいいんじゃないかと思っている。英検1級の方は、まあこれくらいのをやっていると景気がいいから。語彙力的には1級受験には全然たりない感じがするが、長文読解ならある程度は行く感じがするので、語彙的なものを少し見てみようと思ったのだが。

新・基本英文700選

駿台文庫

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英検1級語彙・イディオム問題500

旺文社

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新書やマンガのコーナーも見たが買いたいものはなし。結局二冊だけ買って外に出、日本橋まで歩いてコレドで食料品など買って帰る。蓮の実の甘納豆というものを買ってみたが、なんだかあっさりしていて結構美味しい。しかし甘納豆という感じじゃないな。いつものようにリッタースポーツのラムレーズン(チョコレート)を買うが、これはもうなんだか中毒だ。

うちに帰ってきて、本棚にあった村上春樹訳・フィッツジェラルド作品集『マイ・ロスト・シティー』(中央公論社、1981)を読み始める。これは以前買ってあったのだが途中で投げ出したものだ。しかし『ギャツビー』を読み終えた今となっては以前とは全然違う気持ちで読める。いや、読まなければならないというものを感じる。いろいろ調べてみたら、この作品は村上の最初の翻訳作品らしい。いろいろと評価も分かれていて、今年改訳したものも出版されているようだ。しかし、村上の記念すべき翻訳第一冊目、というのもそれはそれで意味のあるものだろう。25年前の訳。私は19歳だった。今は。嗚呼。

マイ・ロスト・シティー―フィッツジェラルド作品集

中央公論新社

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最初に「フィッツジェラルド体験」という村上のエッセイがある。25年後に書かれた『ギャツビー』の「あとがき」の文章と微妙に感触が異なるのが興味深い。彼にとってのフィッツジェラルドは、大きい存在であり続けたという点で変わりはないが、その意味するところは微妙に変化しているような気がする。その分だけ、彼の中で消化されて行ったということなのだろうと思うが。

フィッツジェラルドは、いつも自分が二流の作家なのではないかという不安に怯えていた。それは自分をヘミングウェイに比較していたからだ。ヘミングウェイと自分のことをフィッツジェラルドはこういう。「アーネストは牡牛で、僕は蝶だ。蝶は美しい。しかし牡牛は実在する。」フィッツジェラルドという作家の「軽さ」については多くの評者が指摘してきたし、私も『ギャツビー』を読破するまではそう思っていた。

しかし『ギャツビー』を読み終えた今思うのは、そうした「重さ」とか「軽さ」ということが、いったい何の意味を、何の価値を持つのだろうということだ。ジョン・レノンは重く、ポール・マッカートニーは軽い。だから私たちの世代の多くの人たちはジョン・レノンを重んじ、ポール・マッカートニーを軽く見た。あの当時から私はそういう風潮に反発し、ポールを強く支持してきたものだが、しかしいつの間にか重いものをよしとする風潮に囚われていた部分も強くあったのだなあと思う。

ヘミングウェイとフィッツジェラルドも同じことだ。ヘミングウェイの重さは時代的に今色褪せつつあるというのもあるけれども、本質的にそんなに魅かれるものがない。フィッツジェラルドは、そしてポール・マッカートニーも、私は軽いとは基本的に感じない。感じるのは深さだ。ヘミングウェイの重さのほうに、むしろ底の浅さを感じるというと、おそらくは読書体験が十分とはいえないから言い過ぎなんだろうと思うけれども、ただフィッツジェラルドのような感覚の中に内包された本質的な「遠いところまで届く」感覚を、ヘミングウェイは持ってはいなかったような気がする。その「遠いところまで届く」感覚こそが、私にとっては多分一番大切なものなので、それがない作家にはあんまり魅かれるものがないということなのだろうと思う。それは、私がプーシキンには引かれ、ドストエフスキーには魅かれないのと同じことなのだろうと思う。

ただもちろん軽ければそういう感覚を持っているとはいえないわけで、そのあたりはやはり読んで見なければどうしようもない。そこを読む気にさせてくれたという点で、やはり村上には非常に感謝している。村上自身には、私はそんなにそういう感覚は感じなのだが、ただ何かそのあたりとクロスする感じのものがある。考え方は全然違うのに彼の作品を面白く思うのは、そういう部分があるからなんだろうと思う。

「彼の心にはいつも充たされぬ思いが残っていた。」と村上は書く。「『ギャッツビイ(ママ―引用者注)』は良い小説だ、でもそれはただの『立派な作品』(トゥール・ド・フォース)に過ぎないじゃないか、という疑問に彼は苦しめられた。僕が書きたいのは『信仰の告白』(コンフェッション・オブ・フェイス)なんだ。」

私は、『ギャツビー』に感じるのは鎮魂であり、祈りであったから、このフィッツジェラルドの言には意外なものを感じた。多分、この小説は、作者の意図するところより遠くまで届いているのだ。そしてそれこそが名作が作者を超えて存在する由縁なのだが、そのことに作者のフィッツジェラルドも訳者の村上も気がついていないように思われてならない。この作品は、フィッツジェラルドの言う『信仰の告白』そのものなのではないかと思う。あなたはそれを立派にやり遂げた、と私はいいたくてならない。

しかし村上はこう続ける。「信仰の告白……、それは決して一流の作家が目指すものではない。」と。この言は信仰を持たない世代の浅薄さ、というようにしか私には感じられないのだが、このあとの作品である『夜はやさし』が「信仰の告白」の成果である、と村上はいい、そしてそれをいずれ彼は訳すだろうという話もあるから、それをまた期待したいと思っている。

世界をありのままで愛するのか、世界の変わっていくべき未来を愛するのか。私はどちらかといえばありのままで愛することを選択する方なので、おそらくはそのせいで「軽い」ものが好きなんだろうと思う。変革につきものの「意志」を、それ自体では必ずしも素晴らしいとは思わない。ただそれを持った人間を美しいと感じる部分はもちろん私にもあり、それがその人間のほかの部分から醸し出される品とかさわやかさと重なったとき、多分私はその人間を好ましく思うだろうと思う。しかしそれは、それもまたありのままの世界の一部であるからなのだと思う。

いろいろ書いたが、まだ要するに前書きしか読んでいないのだ。ただただ私の多弁な症状が出ているに過ぎない。


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