村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』/「ステロタイプ」と「規範」

Posted at 06/08/23

昨日帰郷。特急の中では村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫、2002)を読了。阪神大震災に関連して書かれた6本の短編の連作、とでも言えばいいか。それぞれよく書けていると思う。村上の短編は完全に独立していると何を言っているのかよくわからないものが時にあるのだが、このように一つのテーマでの連作になると、一つの全体像のようなものが見えてくる。この登場人物の誰一人として被災地に帰ったりボランティアに出かけたりしない。被災地の出身の村上がそのような書き方をすることで、「神戸」が彼にとってどんな場所であるのか、ということがわかってくる。帰れない「Home」としての神戸。帰らないことを選択した人たち。新しい場所で、それぞれが「たたかう」べき相手を持つ。それとのそれぞれの関わり方、「たたかい」のあり方。

神の子どもたちはみな踊る

新潮社

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詳細に論じるといろいろ出てくるが、単純に感想ということで言えば、「かえるくん、東京を救う」が一番好きだ。よく言われている村上の作品の「透明感」とは裏腹に、村上が「敵」として意識しているものは、あるいはその「意識」は、かなり生々しいしどぎついし、暴力的であるし混沌としている。それがあまりストレートに現れすぎると『スプートニクの恋人』の後半部分や『ねじまき鳥クロニクル』の第3部のようにむしろ「嫌な感じ」が強くなりすぎ、少々反発を買うのではないかと思う。この村上の「敵」はサイバーパンク的なものであったり無機質であったり「虫」的なものであったり生理的な嫌悪感であったり、なんというか「村上の敵」的なものといえばああこういうもの、といえるようなものなのだが、それを別の言葉でいえばなんと言えばいいのか、ちょっとよくわからない。既成秩序とか既成権力とか、まあそのように言ってもいいのだが、その「敵視」自体に理不尽な感じがすることさえあって、まあよくわからない。

スプートニクの恋人

講談社

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今回の「かえるくん」の敵は「みみずくん」なのだが、そういう馬鹿げた設定でもなんとなく面白みを感じてしまうのがそこに村上的な世界の構築があるからで、なにしろこの「かえるくん」がおかしっくて仕方ない。「ニーチェが言っているように、最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです」とか「ぼく一人であいつに勝てる確率は、アンナ・カレーニナが驀進してくる機関車に勝てる確率より、少しましな程度でしょう」とか、かえるのくせに言うことにいちいち教養がほとばしっているのだ。今ふと思ったが、この存在は「ねじまき鳥」に出てくる加納マルタ・クレタ姉妹のような「奇妙な味方」によく似ている。村上にとって「味方」は常に奇妙なものであり、敵は常にどろどろしたものだ。

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編

新潮社

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私が演劇をやっていたせいもあるが、これは舞台に乗せたら絶対面白いと思った。村上の会話はかっこつけてるとよく言われるが、舞台上の会話と考えるとどれもインパクトがあってかなりよいものが多い。村上は本質的に戯曲作家なのかもしれない。少なくともイシグロのような生来の小説家とはちょっと違うものがあるような気がする。

帰郷後夜まで仕事。忙しくもあり、忙しくもなし。こちらは本当に涼しい。夜もよく寝られるし、朝方などは寒くて厚い布団を掛けた。昼はかなり気温が上がるが、朝夕が涼しいと本当に楽だ。コスモスがたくさん咲いている。

***

昨日はオートマチック型言説、バランス型言説、オリジナル言説というようなことを書いたが、つまりはステロタイプか否か、というようなことを問題にしたかったのだと思う。この問題をさらに考えると、ある考えが「ステロタイプ」なのか「規範」なのか、という問題に行き着く。オルタナティブの言説を提出することは、現代社会においてはそれ自体に大きな困難を伴うことはあまりない。もちろん現代でも倫理規範や清潔規範のようなものはまだまだ強く、それに触れるものはかなり強く排除されるということはあるが、それは一応おいておく。

異なる二つの思想が対立するとき、その攻撃は個々の事例や言説に対する攻撃から始まるが、最終的にはその思想本体を吟味することになる。その思想を成り立たせている規範が、生き生きとしたプリンシプルであるのか、惰性で保たれているステロタイプなのか、ということがかなり重要な問題になってくるだろう。したがってお互いがお互いの思想をステロタイプであると攻撃することになり、自らの規範の有効性を主張して防衛することになる。そうなると、つまりは相手の規範が「思い込み=信仰」であるとか、「無効なもの=フィクション」であると攻撃し、相手の思考が硬直化したステロタイプなものであるとか、まあそういう議論になるわけだ。

そのように、結局最終的には神学論争になるわけだが、カトリックはまさに数々の神学論争に打ち克って樹立されてきているからなかなか手ごわい。その系統を引く西欧系の思想が強いのはまさにその論争力によってである。現在の議論では、特に日本では最終的には「科学的か否か」あるいは「民主主義的か否か」ガラスとワードとなって決まることが多いと思うが、私などは近代科学にも民主主義にも懐疑的であるからなかなか論争的には論理で勝つしかなく、聴衆の支持は得にくいだけに厳しい。

論争という範疇で考えれば以上のようなことになるが、人間が相手を説得するための手段はもちろん論争だけではなく、篠原一他編『現代政治学入門』(有斐閣双書、1965)によれば実力による威嚇、利益による誘導、論理による説得の三つがあり、現実の状況ではそれが複数組み合わされることになる。

現代政治学入門

有斐閣

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また交渉事ではお互いが譲らないとどちらも少しずつ何かを譲ることによって一得一失の妥協ということになることも多い。しかし思想上の問題はなかなかそうは行かない。

日本的な思想というものは基本的に融通無碍なので、自分が足りないと思ったものは論敵であれなんであれどんどん取り込んでしまう。特に中世思想の展開は『偽書の精神史』を持ち出すまでもなくそれが華やかだ。

偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世

講談社

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近代天皇制というものがぬえ的なものだというのはよく言われることだが、それは天皇制に限ったことではなく、日本文化というものが本来的にそういうものなのであって、それが徐々に洗練を重ねて行くところに日本文化の骨頂があり、九鬼周造『「いき」の構造』の解説文にも書いてあったが、関西的な「粋(すい)」よりも江戸的な「いき」の方がさらに洗練が進んでいるという意見はそういう部分があるだろうと思う。

「いき」の構造 他二篇

岩波書店

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いろいろ考えてみると、思想の「良し悪し」など本当にあるのかという気もしてくる。他者を抹殺するような思想、ユダヤ人を虐殺したナチズムやブルジョアを虐殺した共産主義思想やマオイズムは少なくとも「悪い思想」だと思うが、相対的に穏健な思想の多くは「すきずき」なんだと私などは思うし、他になにか基準があるとしたら他の思想に対してどれだけ寛容であるか、狭量であるかという基準くらいしかないような気がする。

あとは洗練を取るか、美的優位性を取るか、親近性を取るか。何かの思想が相対的に優位に立って社会を取り仕切るのは仕方ないと思うし、現実にそれが民主主義であってそれが十分に寛容性を持ってふるまっている限りはそれはそれでよいだろうと思うが、居丈高に懲罰的に他者をぶったぎるような変容を見せたときには他の思想は立ち上がり自らの存在権を主張するしかないのだと思う。

思想的少数者の思想信奉権は十分に守られるべきだし、自らの違う思想が少し流行ったくらいで戦前回帰だのなんだのと大騒ぎをして潰そうとするのはいかがなものかと思う。

なんかメタ思想?的な話になったし、途中で時間が置かれたのでまとまりも何もなくなってしまったが、これから果たして思想というものはどういうふうになんて行くのかなあと考えた。現代文学に多少は関心を持ったように、現代思想にも多少は関心を持たないといかんなあとも思う。それ以前に日本的保守主義のようなものをもっと語りえるものにしないといけないのだとも思うが。

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