岡田英弘『歴史とはなにか』

Posted at 06/08/03

昨日。なんとなく疲れてしまってあまり調子が出なかったのだが、仕事の頃には回復。それなりに忙しい。水害の後遺症がいろいろ出てきて困るのだが、徐々に解決していくしかないという感じ。

岡田英弘『歴史とはなにか』(文春新書、2001)再読、読了。歴史に関するさまざまな卓見が書かれていてなるほどなあと思うことが多い。ただ深く感動するということでもないのは、哲学的な部分、思索的な部分がないからか。しかし逆にそれが歴史をイデオロギー化しないということかもしれない。

歴史とはなにか

文藝春秋

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歴史の本質は「認識」であり、また「科学」ではなく「文化」であるから、その文明によって歴史のあり方はさまざまだ、という話はなるほどと思う。本質的に歴史を文化要素としてもたない文明がある、という話もなるほどと思う。インドが非歴史的な文明だというのはよく言われることだが、イスラムもそうだ、という話ははじめて考えさせられた。イスラムでは「未来は神の領域」であり、神の意志が貫徹する場であって、人間が「正確な予定表」を作ることなど神を冒涜する行為だ、と考えられているというのはなるほどと思う。しかし、歴史を記述しておかないと地中海文明世界との論争に勝てないため、つまり「武器としての歴史」は持つようにしているが、歴史は本質的な文化要素ではなく、付加的・補助的に過ぎないため、論争でもなかなか西欧には勝てない、という話はなるほどと思った。

この本は2001年7月に買って読了したという記録があるので調べればその時に感じたことも書いてあると思うが、現代中国が日本式の国民国家を目指していて、その弊害が中国に現れているという話が印象に残ったことを思い出した。この本は確かに面白いのだが、あまりにいろいろなことについて書いているので散漫な印象になっていたことも思い出した。ただ、著者としては、自分の意見が各所で拒絶的な反応を呼んでいることをよく自覚していて、そういう意味で当り障りのない表現にしようとしているところが多く、意識してあまり一つの論点に集中的に突っ込んでいかないところは今回読んで感じた。日本史や西洋史に論及したところは何を根拠に言っているのかと思うところが多少ないこともなかったけれど、こういうスタイルだと論理が少々飛躍するのは仕方ないのかもしれない。

歴史の本質は何か、ということは私もよく考えていた問題で、それは認識だ、と言われるとなるほどなとうなずくところがある反面ある意味あまりに機能的な表現であるため納得しきれない部分も残る。そういう言い方をすればあらゆる学問は本質は認識で、知見を広げ、深めていくことが学問の使命ではある。確かに歴史は認識であって、行動の基礎にはなるが、どう行動するかは歴史の関知する問題ではない。しかし実際にはその行動まで規定しようとする学者が多いから歴史にイデオロギーが入り込むことになる。

そういう歴史は「良い歴史」ではなく「悪い歴史」である、と岡田は言う。神話やイデオロギーを去って記述された歴史こそが「良い歴史」であるが、それは多くの場合反感を買うと。確かに東アジアのようにどこの国も神話とイデオロギーが社会や国家権力を支えている地域では「良い歴史」は誰にも受け入れられないだろう。ただその「良い歴史」であってもそれは「科学」ではなく、「文学」(この用語が妥当かどうかは別にして)だということを岡田は言っていて、それはそういう前提を持つことは重要だと思う。歴史において科学という概念は必ずドグマ化する。

今回読んでいて思ったのは、岡田は必ずしも「悪い歴史」を排除しようと考えているわけではない、ということだ。どの国民も民族も、自らのアイデンティティを必要としていて、時にはそれが神話やイデオロギーでなければならないときもあり、それから作られた悪い歴史が必要なときもある。それは、「歴史は武器である」と言う側面から、自らを守ったり周辺諸国と争ったりするために必要だからだ。別のところで読んだが、モンゴルはソ連に完全に民族史を奪われて、冷戦後の今、ものすごいチンギス・ハーンブームになっているのだという。そこで読んだが、チンギス・ハーンについて彼らはまだ一般に何も知っていないのだという。中国やロシアやヨーロッパではチンギス・ハーンは悪役だし、そういう意味で関心がない。実は日本人がチンギス・ハーンについて最も一般の人びとが知っている国民だ、ということらしい。本来モンゴルの研究者である岡田はそういう悲哀をよく知っているので、「悪い歴史」に縋ろうとする心理もあながち否定できないということのように思われる。

だからといってよい歴史を書こうとする努力は否定されるべきではない、いやむしろかかれるべきだというのが岡田の主張で、「史料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明」こそが「歴史的真実」であり、それに基づいて書かれる公平な「良い歴史」が書かれることによって、対立はおさまりかなり解決できるのではないかと言っている。

ただ岡田も言っているように、世界に起こる事象は必ずしも方向性はない。しかし当然、歴史は方向性を持って叙述されるわけで、そこに論理的な無理はどこかで必ず生じる。というか、大胆な論理であればあるほど無理は生じるし、その極地が歴史は発展するという観念だろう。岡田のこのあたりの議論はもっと西洋史等での議論を踏まえてして欲しいという感じはあったが、まあ言いたいことは分かる。私が思うのは、やはりその論理はあくまで仮説であるということで、それについては岡田も力説しているが、たとえ仮説であっても「歴史」としてかかれたものは人々の観念を非常に強く規定するということで、だからこそイデオロギー闘争の場にもなってしまうのだが、論理が勝つことによって論理に掬い取りきれない微妙な真実が犠牲になりることを怖れるのである。そしてその微妙な真実こそに人びとがアイデンティティをおいていることが特に日本文明などでは多いために、論理の無神経な無機質さをおそれるのである。

そのあやを微妙に生かしていくのが歴史叙述の真髄だと思うのだが、なかなか大変なことであるのは事実だなと思う。

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