小林よしのり編集『わしズム』夏号/民主主義というウソ話/「話をまとめる能力」に対するこだわり

Posted at 06/07/23

昨日。午前中、昼食の買い物に西友に出かけ、三階の本屋で小林よしのり編集『わしズム』2006夏号(小学館)を購入。わしズムを買うのは3号ぶり。最近は『新ゴーマニズム宣言』の単行本も買ってない。ただこの号はこうの史代が巻頭カラーで書いていてそれに引かれた部分もあり購入した。こうのの作品は凄い。ただどのように凄いかは書いてしまうとネタばれになるので暫くは書かない。しかし、こういうのは少なくとも私は初めて見た。

この号は「戦争論以後」と題し、1998年の『戦争論』発売以降の世論の変化、いわゆるネット右翼の隆盛等についていろいろな議論が展開されていてなかなか興味深い。こうの史代の作品掲載もその一環なのだが、「自称愛国者」への失望を語り、今までいろいろな形で離れて行った切通理作や西尾幹ニの一文も載せ、対極にあると思われた大塚英志や香山リカを招いて鈴木邦男・富岡幸一郎と五人で座談会を行い、これが相当充実していた。

大塚英志は「戦後憲法が自分にとっての(宗教に変わる意味での)超越性だ」と言っていて、彼は確かに筋金入りの戦後民主主義者だ。そこまで言い切っている人は評論家や作家を含めてなかなか聞いたことはないが、彼の立論はすべてそういうところに論拠を置いていて、どうも私などはチャンチャラおかしいと思ってしまうけれども、憲法をそこまで深く掘り下げて――超越性というからには、憲法を守るためには命を投げ出しても惜しくないと言う意味だろう――確信の根拠におくというのは、一つのあり方だろうとは思う。鰯の頭も信心から、と思ってしまうのはもちろん私がそう思わないからに過ぎない。

で、小林よしのりもそういう大塚のあり方を実は結構感心して共感を持って聞いている。小林が依拠するのも結局は神仏ではなく、おそらくは公共性でもなく、「情」であるから、戦争論がたまたま悪者にされている「出征した老人たち」を擁護するのが目的で描かれたために右翼とレッテルを貼られたにすぎない。小林は自らの作品の作家性に強くこだわる人物で、そういう意味で文学的であるから、基本的には近代人であって、超越性の問題にはそんなにとことん深い関心を持ってはいないような気がする。そういう点ではかなりフレキシブルで、表現が強いから「極右」だとか誤解されやすいけれども、表現ほど極端な思想性を持っているわけではない。

最近の作品ではずっと『嫌韓流』に代表される韓国人バッシングに強い忌避感を表明しているし、特にイラクの人質(男二人女一人)バッシングにショックを受けていた。彼の主張は結局イデオロギーではなく「情」であって、元兵士の老人たちにも、関東大震災で襲われた朝鮮人たちにも、政府の警告を無視して行動して危機に陥ったイラクの人質たちにも同様に「情」を持って描いているに過ぎないのだ。ただそれぞれの際に徹底して論拠を積み上げて描くのでものすごく堅牢な思想性を持っているように誤解されてしまい、「敵」はビビリ「味方」は浮かれてしまうために後で違う面について発言し始めると「裏切られた」と言う印象を持つのだろう。まあそれはそういう作家性の持ち主だと割り切っておいたほうがいい。

そのほか遊就館の特集や戦没した若い兵士の手記なども載せられ、いろいろな意味で充実した一冊だと思う。

***

「超越性」の問題と言うのは最近よく考えているのだが、結局私と同じような思考をする人とはまだ出会ったことがない。私が日本国憲法がちゃんちゃらおかしいと持ってしまうのは、(だから全く無効だ、と言う意味ではない。現憲法に変わるものを自分が持っているわけではないから「より少なく悪い」ものとして現状では甘受すべきものだろうとは思っている。部分的にはもちろんどんどん替えてよりベターなものにしていくべきだと思う。それは教育基本法等についても同様。)結局はこの憲法が社会契約論に立脚して成立しているからである。

子供のころ―多分中学生のころだろう―だが、私はなぜ自由とか平等とか権利とかそういったものが「絶対」のものとして存在しているのかと言うことがどうしても納得できず、とにかくいろいろ調べてみて、これは学校で言葉だけ出てきた社会契約論というものに基づいているらしいと言うことがわかり、ホッブズやロックの言うことを自分なりに考えてみて(せいぜい高校生向けのものだと思うが)どうしても納得できなかった。つまり、人間が「自然状態」にあると「万人の万人に対する戦い」が起こったとか、お互いの公共の利益のために自らの権利を委託して政府を作ったとか、そういう記述が納得できなかったのだ。

そのころから歴史に関しては強い関心を持っていたので、簡単に言えば歴史上「自然状態」が存在したことなどないのだし、そこで「社会契約」を行ったことなどないではないか、と思ったのだ。簡単にいえば「自然状態」も「社会契約」も「ウソ話」だ、と思ったのである。しかしそのことを断言して保証してくれる人も本も見つからず、私の発見したこの考えが本当に正しいのかどうか、ずっと不安だったのだ。だからと言って民主主義を否定したりすれば居場所がなくなることくらいは中学生や高校生のころの私だって理解できたし、自分の考えが間違っているのか、みななぜ平気で民主主義など主張できるのか、いつも不安に思っていた。

後になっていろいろ考えたり歴史を調べたりして、たとえばピルグリム・ファーザーズによる「メイフラワー誓約」が「社会契約」とみなされていることとか、フランス革命でも1790年の「連盟祭」が国王・貴族・ブルジョア・民衆のそれぞれが参加しての「社会契約」のイベントだったことを知ると、彼らは実際に「社会契約」の行事を行って彼らの国家を再組織したと納得した。その伝で行くと日本国憲法は衆貴両院の議決が「社会契約」の手続きであったことになるだろう。そんなことをいう人は聞いたことはないが。

まあ要するに西欧において契約国家観は「完全なウソ話」ではなく、いちおうの(十分とは思えないが)手続きを踏んで成立しているということはある程度納得のいくものだった。逆に日本において誰もそんな認識を持っていない以上、日本国憲法の架空性はさらに高まるものと思われた。

最近またそのあたりのことをいろいろ考えていて、要するに聖書に基づく「王権神授説」に対抗するためには聖書に全く依拠しない、キリスト教的な根拠を持たない「自然状態」という新たな「神話」を仮構することがどうしても必要で、現代国家というのはそうした啓蒙主義時代の人々が考えた『「世俗的な」「神話」』と言う全く相矛盾するアイデアに基づいてようやく成立すると言う歴史的過程をたどったのだと言うことを今になって理解した。

つまり、王権神授説がいわば「聖書のウソ話」によって成立しているのと同様、民主主義も自然状態と社会契約という「啓蒙主義者のウソ話」によって成立しているのであり、人権概念もまたすべてそういう「空から林檎を取り出したような手品」によって成立していると言うことになる。もちろんそれらの概念はもっと古く、ローマ法から続く実定法上の歴史の中で形の上では考えられていたものもあろうが、少なくとも現存の人権概念は手品によって生まれたものだと考えるべきだろう。

このあたりは私の理解力が不足しているためかようやくこの年になって把握したのだが、同様に天皇の「万世一系」という考え方が一種のイデオロギーであると言うことも最近になってようやく理解した。いままでは単純に「事実」として私は受け止めていたし、天照大神から暫くの系譜をそのまま信じていたわけではないにしても、まあ聖徳太子くらいからは続いていたわけだし8割くらい万世一系なんだからそれでいいんじゃないの、位に考えていたのである。

まあ国体論に関しては「だいたい万世一系」位のいい加減な考えだったが、科学と言うものに対してはこれもかなり不信感を持っていて、「科学は絶対に正しい」というのは事実ではなくてイデオロギーだよな、と考えていたし、今ももちろんそう思っている。しかし、まあ「科学のいうことは結構当たってるよな」くらいのことは思っているわけで、そのあたり「だいたい万世一系」というのと似たようなものである。だから「科学が絶対に正しい」というのがイデオロギーなら「絶対万世一系」というのもやはりイデオロギーだ、とようやく腑に落ちたのである。

まあここまで書いてきて改めて思うが、こういう考え方をしている人間というのは私の他にそんなに多くはないだろうなあと思う。ひょっとしたらゼロかもしれんなあ。

まあしかし、進歩派が「万世一系はウソだ」というと「何で?私はそうは思わないな」と返答して嫌な顔をされたものなのだが(だいたいそれで人間関係が気まずくなることも多かった)、彼らのいうことが国体論、「万世一系」説がイデオロギーだ、ということを意味しているなら、それはそうだな、というくらいには思う。だがそれは、契約国家論がウソ話だ、というのと同じくらいのことでしかなく、つまりどういう考え方を取ろうと「真実性」ということに関しては全然変わらないんじゃないかと思うのである。それなら別に私が結構いい加減ではあるが「万世一系」説に立ったっていい訳で、とやかく言われる筋合いでもないな、と思う。もちろん議論はしたっていいし、こういう人間がいるからこそ「聖徳太子はいなかった」みたいな「万世一系」説破壊に狂奔する人々が出てくるんだろうなとは思うけれども。

***

家庭用ファックスを買おうかと久しぶりで秋葉原に出かける。銀座線神田駅で降りて万世橋の方へ。しかしなんというか、浦島太郎状態。知っている店がどんどん模様替えしたりテナントがまるっきり変わったりしていて、特に家電はどこがいいのか全然勘が働かない。しかも出かける前に価格コムを見ていってしまったために13000円以上のものを買う気がしない。結局探すのをあきらめ、神保町に向かった。須田町で竹隆庵岡埜の出店を見つけ、和菓子を買う。久しぶりにやなか珈琲店の前を通る。焙煎の匂いは魅力的なのだが。

三省堂、ブックマート、東京堂などをうろうろする。グランデの周りに人が並んでいたのでなにかと思ったらラジオに出る人のサイン会らしい。よく知らない人だが人気があるんだなあと感心。

帰りにコンビニでグレープフルーツジュースとおにぎりを買い、何をしにいったのかわからない外出ではあったが、帰って来た。

今朝もまたいろいろやっていたら友達から電話がかかってきて話し込む。人は社会とどう折り合いをつけているんだろう、という話をしていて、「全然気にしない人もいるよね」、ということでは一致したが、「そのほかのみんなはどうしてるんだろう」というと、「そのほか」を「みんな」って一くくりに出来ないんじゃないの、と指摘されて虚を突かれた。そのほかの人たちはみんなそれぞれで、社会との折り合いに悩んだりうまくいったりいかなかったり、そのあたりのところはそれぞれに工夫してやってるんじゃないの、グラデーションになってるんじゃないの、といわれてああそうか、と思った。指摘されてわかったが、私は一まとめに出来ないものを無理にまとめようとして苦労して、それで思考が不自由になるということが実に多いのだなということに気がついた。「話をまとめる能力」に対するこだわりが私の場合どうも異様に強いらしい。そのあたりのところ自覚して現実や人生に対処していかないとまずいなどうも、と思った。


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