護国寺から目白/PCとリアリティ/「外国語がわからない不安」とナショナリズム

Posted at 06/07/11

昨日。いろいろ考えながら、発想を得るために歩きに行く。最初は多摩の方に行こうと思ったが途中で気が変わり、特に根拠はないが護国寺で降りる。降りると駅前に大きな講談社。こういうところなのかと思いつつ直進し、突き当りの護国寺へ。このあたり、江戸時代の古地図にも表現されていた気がする。縁日の屋台がいくつか出ている中を本堂まで階段を昇り、参拝。なぜかスケッチをしている人が多い。中を抜けて池袋の方に出られるかと思ったが道がわからず、お墓の中を通って引き返す。風に煽られてキャンパスが飛び、絵面が汚れそうなのがあったので拾って立てかけておいて上げると、遠くから「ありがとうございます」と女の子。高校生か大学生か。見られていたならちゃんとイーゼルにかけてあげてもよかったなと思ったが、しかしそれではまた飛ばされるか。難しいところ。

昨日は横浜、今日はお墓。護国寺を出て池袋の方に歩くがいい感じの小道を見つけてそちらに入ると、右側がずっと雑司ヶ谷霊園。うーん、お墓続きだ。しかし考えてみれば海が異界への通路であるように、墓地もまた異界への通路だ。そういう意味では共通してるんだなあと思いつつ雑司ヶ谷の町並みを歩く。方向感覚を少し失ったが、古い商店街がいい。しかし、こういうところで生活している人の感覚というのをたとえば小説に書こうとしてもかけないだろうなと思う。感覚的に結局あまり理解していない。

不忍通りにでてまた目白方向に歩き、目白通りに入る。学習院の横を目白まで延々歩く。目白駅手前で日本女子大からのバスが着き、女学生がどっと吐き出される。駅前を抜けて商店街へ。確かに目白の町は住むのにはいいと思うしいいなと思う店も多いが、横浜のように遊ぶ(つまり散歩して楽しかったり開放的だったり景色がよかったりする)ところがないなと思う。横浜はやはりなんか特権的な町だ。目白や雑司ヶ谷を歩いても、山の手と下町、モダンと伝統の入り混じった感じが面白くはあるが、人はせかせか歩くし表情は硬いし、車はがんがん急いでいて、やはり東京らしいせわしい硬い感じは否めない。横浜だともっとペースがゆっくりで、表情も柔らかくて開放的な感じなんだよなあと思う。そこは行政上の首都と港町の本質的な違いなんだろう。

お酒の店とブックオフで時間をつぶした後、目白に戻り山手線に乗る。6時過ぎだったが池袋大塚経由で半周して東京駅に戻る。日暮里でほぼがらがらになり、秋葉原まで乗り降りもあまりない。秋葉原東京では若干出入りがあったが、この時間東京の西側の混雑は半端じゃないのだが。

大丸でセールを見て回り、日本橋に出て丸善で軽量のバッグを買い、プレッセに行って夕食の買い物。なんか疲れていてものがあまり食べられない。食べておいた方がいいかと思って食べたが食べ過ぎた感じ。

しかし歩いてみて感じるのは、最近、それもPCがブロードバンド化して以来、本当に外界との接触が減っているなということ。外界はこんなにも刺激に満ちているのに、PCの手軽な仮想現実に気がついたら取り込まれていることが実に多い。現実に積極的に触れる努力をしていないとリアルなものを感じる能力がなくなってしまうというのは決して誇張ではないなと思う。経済学者とかの発言がリアリティを欠くようになってきたのもそういうことと無関係ではないのではないか。

しかし、町に小洒落た面白い店が増えているのは、PCの普及と無関係ではない気がする。ネットはやはり個人の情報収集能力を飛躍的に高めたから、少し面白いアイデアを具体化するのにものすごい力を発揮しうると思う。また、我々が高校生や大学生のころは近づきにくい場所や場違いなのに気がつかない場所に入っていって赤面するようなことがよくあったし、そういうことがいろいろなことへの気後れを生んでいたが、ネットで下調べが簡単に出来ることによっていろいろなものへのアクセスの心理的な部分が非常に軽減されているのではないかと思う。実際の行動に役立てることが出来れば、ネットというのは百人力だし、実際に行動に移さなくてもそれなりに何かやった気になってしまうのもある意味でのネットの力だろう。昔とは道具のありようが全く違うが、これもまた一つのツール、道具であって、上手な使い方を研究し普及していくことはこれからの子供のためには大切なことなのではないかという気がする。

だんだん物事をやる気が蘇ってきて、青木保・リービ英雄「国境を越える文学」を読み通す。この話はとても面白い。しかし、外部へのアクセスの能力の多寡が今後の社会ではかなりキーになってきそうな気がする。デジタルディバイドという言葉があったが、外国語の駆使能力が人々を分裂させる時代が近づいているのではないか。ポスト植民地あるいは社会主義状況の中、人々の民族主義的な分裂はより深まっている。その原因をリービは深層心理的に分析して、「外国語がわからない人の不安」ではないかといっている。これはかなり重要ではないかと思う。日本人の子供が5歳でアメリカに行き、回りが全部英語だということに大変なショックを受け、「突然凄い差別的なことを言ったりヒステリーになる。東ヨーロッパの小国ナショナリズムは、ああいう子供のヒステリーとどこか似ている。…そこにはモノリンガルの復讐というようなものを感じます。」という指摘は本当にそうだなあと思った。

私自身、アメリカに移住するか否かという選択を迫られたときに、やはり私には出来ないと思った最大の原因の一つは英語能力にあったことは確かだ。今ではそれでも英語能力を高めることは重要だと思って勉強を続けてはいるが。しかし、いくら英語能力があっても嫌なものは嫌で、アメリカ的な思考パターンや論理展開そのものが体質的に嫌だという感覚がある。そういうものを日本および日本語の文脈で数十年築き上げてきたわけだし、それを今更裏切れないということも思う。それをすべて投げ出し、皿洗いから、つまりタブララサの状態からアメリカで一からすべてを築き上げる気持ちがある人が「アメリカ人になれる人」なのだと思う。で、そういう人が結構いることは結構複雑な気持ちにはなる。

しかしまあそれは個人の勝手だろうと思うが、国境を越えていくこと、境界を越えていくことだけが未来の可能性だという議論にはやはり与せないものがある。外国語の壁は負の壁、能力の壁だが、文化の壁はいわばポジティブな壁だろう。ただ日本、いや日本語世界が流出超過であることは憂うべきことで、もっと流入可能性を確保しておかないとまずいとは思う。

日本の文化的ナショナリズムも三島と石原では違うという意見もよくわかる。私も日本語で書く外国人の作家はもっと増えて欲しいと思う。日本語の可能性、世界性をもっと広げていくこと自体は日本にとっても世界にとっても望ましいことだと思う。その中で日本の伝統的な美意識とか考え方の枠組のようなものが広く理解されるようになっていくことが、日本が世界に理解されるということだと思うし、それが現代世界で日本が日本であることをやめないで存在し続けられる唯一の道ではあるだろう。現代世界で鎖国が不可能である限り。

この対談はこれですべてが語られているとは思わないが、問題提起としては面白い。文化的アイデンティティの「獲得・確保・維持」の問題と、「拡大・異種交流・新たな創造」の問題はうまく行けば共存できるが、どちらかが性急になると絶対に失敗する。前者が性急になると排外的ナショナリズムに、後者が性急になると「外国語能力の勝ち組による大衆支配」になる。そういう意味ではいままさにそういう状況の時代なのだろうと思う。


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