アンジェラ・アキ/どこが「ホーム」か/個人の「ホーム」とポストコロニアル
Posted at 06/06/13 PermaLink» Comment(0)» Trackback(0)»
昨日はワールドカップ日本・オーストラリア戦をずっと見ていた。ジーコの言う通り、日本はリードしているときにきっちりとした戦い方がもう一つ出来なかったというのが大きいのだと思う。もしあそこでもう一点取っていたら結果は逆になっていたはずだ。残念でならない。
なんだかあんまり残念で、今朝起きてからも残念が残っているくらいだから昨夜は本当に残念だったのだと思う。3時くらいまで寝付けなくて、いろいろネットを見たり本を読んだり漫画を読んだりしていた。
アマゾンのページを見るたびに、最近ずっとアンジェラ・アキという人のCDが画面に出ていて、ちょっと気になってサイトを見たりブログを読んだり、また動画を見たりしていたらどうも気に入ってしまい、なんだか残念という勢いもあってDVDつきのCD(アルバム)を購入してしまった。よく見たら14日発売のデビューアルバムだ。
父は日本人、母はイタリア系アメリカ人、徳島で生まれ、岡山で中学校を出、ハワイで高校、ワシントンで大学を出て、東京で音楽活動をしている。77年生まれだから今年29歳。長い髪、眼鏡がトレードマークのようで、ピアノを弾きながらからだを大きく前に倒したり後ろに反ったりしながら歌う。そのときの足の開き具合がなんとなく身体的に引かれるものを感じるのだがよくわからない。
歌はアニメ・ゲームの主題歌のようなものもあるようだが、声がよくてよく出ていて、メロディーもなんとなく引かれるものがある。ジャニス・イアンのコメントがついていたりする。
アルバムタイトルは"Home"というもので、彼女の来歴の中で、どこが「ホーム」なのか、ということがテーマなようだ。(まだちゃんと聞いてないから分からないけど)彼女の答えは、自分がいたところそれぞれが「ホーム」だ、ということのようだが(まだちゃんと聞いてないから分からないけど)それはひとつの答えではあると思う。アイデンティティを固定しないでそのときを生きるというのは、その刹那の一つの生き方ではあるが、人間は果たしてそれでやっていけるのか、というのはまた別の問題かもしれない。
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考えてみれば、「ポストコロニアル」というのも、個人にとっては要するに「どこがホームか」という問題である。これは西欧文明に席巻された現在において、やはりもともとその文明の所有者である「彼ら」とそれを取り入れた「我々」とは少し問題の立て方が微妙にずれる。しかし我々も程度の差こそあれ西欧文明に同化しているところがあるわけで、その同化度合いと意識の同化度合いとが微妙な濃淡となって我々の内部の「西欧文明問題」になる。しかしそれは、shaktiさんの言うように、植民地の白人にとってもかなり重要な問題で、どこがホームかというのはそんなに単純な問題ではない。
たとえば諸星大二郎が縄文や神話、あるいは中国の説話を扱うのは西欧が来る前の自分たちのホームがどこだったのか、というのを探る意味合いがあるように思われるし、ある意味それは柳田國男でも同じことだろう。しかし植民地の強烈な自然の中で人生が規定されるような影響を受けた白人が、植民地のその場所こそがホームだと感じ、主張することが間違っているとはいえないと思う。
「どこがホームか」という問いの答えは、「自分が自分になったところ」であるべきだと思う。であるならば、コンラッドにとってのホームはやはりコンゴ川上流の奥地であろう。ポーランド出身の船乗りが、英語で書くイギリスの作家になったのは、そこでの体験が死活的な重要性を持つからである。
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同じように、ル・クレジオにとってのホームはやはりナイジェリアの奥地なのだ。しかし、自然はまだ間違いなく存在するが、第二次大戦直後の、まだイギリスの間接統治が残り、部族社会がある程度温存されていた「アフリカ」はその後の独立と凄惨な内戦の中で破壊され、今はもう存在しない。その意味では「ホーム」は既に失われてしまっているのであって、それはアルジェリア出身のフランス知識人や満洲出身の日本の知識人であっても同じような意味合いを持つ。そういう意味ではこれもshaktiさんの言うように、安部公房もポストコロニアル作家であり、新田次郎も、つまり考え方によっては藤原正彦もポストコロニアル作家であるということになる。
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「どこがホームか」というのは私自身にとっての問題でもあるなと思う。そういう意味では、日本人あるいは世界の人全てにとってポストコロニアル状況は存在するということかもしれない。まあそういってしまえば、ポストコロニアル状況もポスト冷戦・ポスト社会主義・ポストソビエト帝国主義状況も本質的に同じ問題を持つことになるし、アジアではポスト中華帝国主義の時代はまだ訪れていないわけだから、それをじっと息を詰めて待つしかないというところもある。いずれにしても、コロニアリズムの悪を糾弾することを政治的資源として獲得するための理論武装として利用するするだけではこの問題の本質は明らかになりはしない。そんな単純なものではない。だからポスコロなどと幾分馬鹿にした言い方をされるのである。
ポストコロニアルの議論が実り豊かなものになるためには、「コロニアリズムの善悪」を一度括弧に入れて議論を広げなければ人類史的な意味は持ちえないと思う。その俯瞰を持った上で善悪を論じたければ論じればよいのだと思う。
と、ここでいったん話を終わる。続きは下に。
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