保坂和志『季節の記憶』:淡々とした記述で「過剰」を表現する

Posted at 06/05/06

昨日はほぼ一日家にいた。出かけたのも昼過ぎ、地元の本屋に行って帰りにアンデルセンでパンを買って帰ったくらい。どこに行っても人がうようよいる状況では、あまり歩く気もしない。こんな日は多分、新橋や虎ノ門のビジネス街や官庁街あたりを歩いてみたら人出がなくて清々するんだろうなと思うが、まあそこまで物好きでもない。

保坂和志『季節の記憶』(中公文庫、1999)読了。「これといった事件」は何も起こらず、毎日淡々と過ぎていき、近所の松井さん兄妹と「僕」と息子のクイちゃんとの生活が続いていく。事件らしい事件といえば、近所にナッちゃんとつぼみちゃんという親子が引っ越して(出戻って)来たくらいで、先の4人とは質の違う上昇志向(?)を持っていることで簡単に言えば価値観の違いからさまざまなさざなみが4人の生活に起こる、ということくらいか。

鎌倉、稲村ヶ崎の風景の描写が最初から最後まで季節を通じて丹念に為されていて、その風景描写の丹念さにより現出する自然というものが、人間の意志とは無関係に自然は存在するという作者あるいは「僕」の主張を説得力のあるものにしている。そのあたりの「主張」が正しいとか言いとかは必ずしも私は思わないが、というか自然とか人間に対するものの見方には抵抗を感じるところは結構あるのだが、こういう書き方で「小説」が成立するのだなあというのは素朴に興味深いと思った。

解説に養老孟司が書いていたのを読んでなるほどと思ったが、この小説の一番の山場はつぼみちゃんに影響されて就学前のクイちゃんが「字が読めない」ということを自覚してショックを受けるところで、「僕」は「字を読まない」期間が出来るだけ長く続くことが大事だという考えを持っているので読まなければいけないような状況になってしまったらどうしようという迷いを松井さん兄妹やときどき電話をかけてくる変わり者の友人たちと話し合うが、結局はつぼみちゃんとクイちゃんの家族ごっこの中で字が読めるつぼみちゃんがお姉ちゃん、読まないクイちゃんが弟という解決を二人で見出して一件落着、ということになる。

そういう生活の中で起こるちょっとした事件、のようなものを浮き上がらせてテーマにするのは、毎日がこれということもなく続いている日常の様子を淡々としかし興味を失わせることの無い程度の緊張感を維持しつつ書き続けなければいけないわけで、これはなかなか大変かもしれない。しかしおそらくはその問題の発生と解決がテーマなのではなく、日常の中のさざなみのようなちょっとした変化を書くことで海がいつまでも海であるように、「ある日常」が日常として続いていくさまを書こうとしているのだろうと思う。そのリアリティを描こうと考えること自体がそうとう知的な思考の産物であることは言うまでもない。

小説でこういうものを読んだのは初めてだが、私は80年代の終わりからはじまった演劇でも日常的な発声で芝居をすることでリアリティを持たせようという平田オリザの「青年団」の芝居や、なんてこともないことが「フツーの若者」の視点で展開するロードムービー、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」あるいはレオン・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」や「ポンヌフの恋人」などを思い出した。ジャームッシュやカラックスにはある種の過剰さがあるが、『季節の記憶』もある意味で人間の動きを徹底的に抑制することで返って自然の過剰さのようなものを表現している、ところがあるように思う。

しかし、こういうやり方は映像や演劇だと何も言わなくても過剰さが表現されて成立するが、小説でこれをやると読者には結構ある種の退屈さに耐える部分を強いる。私も読んでいて、具体的に鎌倉の周辺の風景をもっと知っていたらもっと楽しめただろうなあというちょっと不全感が残るところがあり、小説でこれをやることの困難を感じざるをえなかった。しかしまあ、いろんなリアリティの追求の仕方があるものだと、まあそういうことには感心する。

古井由吉『辻』は「辻」というものをテーマにした短編の連作という感じで、今のところ表題作「辻」「風」と読んで今は「役」を読書中。「季節の記憶」に比べると明らかに物語り、ストーリーが存在しているところが気が魅かれるが、しかし実際にストーリーといえるほどのストーリーであるかどうかはよくわからない。ある種の上質なショート・ショートなのではないかと言う気もしなくはない。オチはないが。ニ三ヶ月前の『新潮』で蓮実重彦と古井由吉が『辻』を巡って対談しているのが非常に印象に残ったので結局今になって読んでいるのだが、自分にはこういうものは書けないと思うけれども面白いなあと思う。現代文学というのは評価の固まっていないものを読むというところに面白さがあるのだなあと当たり前のようなことを思うが、昔の文学の評価の固まったものの評価をひっくり返すのも面白いだろうなあと思う。そっちの方がよっぽど力が必要なんだが。

吉田秀和がロシア文学とロシア音楽を比較して書いていて、文学ではプーシキンがいて、音楽ではチャイコフスキーがいたからそうなったんだ、ということを言っているのだが、プーシキンは天才だったがチャイコフスキーはそうではなかった、といっていて全くその通りだよなあと思った。民族の文学とか音楽とか言うものはやはりその礎を築いた「先祖」に規定されてしまうところが大きいということだが、それを言えばやはり日本の文学は『源氏物語』に大きく規定されているわけで、『文豪の古典力』で島内景ニ氏が言うように、与謝野晶子が源氏の現代語訳をやってから作家たちが原典を読まなくなったことが、日本の文学にひ弱さを産んだ原因だというのはその通りなんじゃないかと思う。とはいっても私なども谷崎訳で読了しただけで、『源氏物語湖月抄』を買って読み始めては見たもののなかなか進まない。近代文学で言えばやはり漱石・鴎外ということになろうが、プーシキンの天才に比べるとやはり漱石は苦悩の人だし鴎外は古典的過ぎて天才のきらびやかさがない、というのが日本の近現代文学を規定してしまっているのかもしれないという気がした。

昨日から書棚を大幅に入れ替え、今まで一番とりやすいところに歴史関係を置いていたのを、文学をメインに置き直すことにした。まだ作業中だが、やってみるとそちらの方が落ち着きがいい。自分にとっての重要度というのはそういうほうがより実態に近いんだなと思う。何とか活動の基盤が成り立つように頑張ろうと思う。

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