『イギリス文学史入門』

Posted at 06/05/01

今日から五月。月が変わってツキが変わるか。

昨日はほぼ一日、川崎寿彦『イギリス文学史入門』(研究社、1986)を読んでいた。読めば読むほど、今まで文学を毛嫌いしてきて人生を相当損したという感じがふつふつと湧き上がってくる。英文学というと私たちの時代はお嬢さんの嫁入り道具、的な雰囲気があって夏目漱石の時代でもなし、今更やっても仕方ないだろうくらいの軽い気持ちであまり関心をもっていなかった。今となってはその致命的な認識不足を嘆くばかり。

子供のころはナルニアシリーズを初めイギリスものには相当関心があったはずなのに、思春期以降歴史に関心が移ったためにフランスが世界の中心のような気がしてきて何か相当間違った気がする。イギリスは確かに帝国主義と資本主義の中心地ではあるのだが、文学に関しては結構特異な歴史を持っている気がする。ってこれもフランス中心主義的な見方なのだろうとは思うが。

私はもともと小説にあまり関心がなかったために、小説=文学という雰囲気から(これは明らかに日本的偏向だと思うのだが)文学を敬遠していたのだが、イギリス文学においてはむしろ詩や評論の方が文学の主流だということを知り、(少なくともこの本の配列はし、散文、小説の順で出てくる)それならもっと文学に関心を持てたのにと残念な気がする。ただ詩に本格的な関心を持ったのは20代も終わりころになってからだし、ましてや評論は30代になってからで、やはりなかなかこの分野への関心は結局は晩熟だったわけで、まあ致し方ないということだろう。40代になってようやく小説にも関心がでてきたというのは、10代のころに文学というものの権威主義的な雰囲気を毛嫌いした付けが回ってきたのだろう。あのころは権力よりも反権力の方に権威主義を感じたしそれは今でも変わらないのだが、まあ昔の時間は取り戻せないので今からいろいろ考えてやるしかない。

しかし英文学の社会に対する関心の深さというものには改めて感心させられる。社会主義の魔に取り込まれてしまったところが日本文学の巨大な陥穽だったと思うけれども、近代文学の厚みがやはりイギリスは違うので、深刻なぎりぎりのところまで追い詰められ方もまた違うけれども、その時代その時代のテーマというか問題性もまた明瞭であるような気がする。日本の場合はその時代の問題性というよりも、非西欧社会に西欧近代を移植した根本的な問題性が常に先に立ってしまうので、より問題が複雑かつ重層的になりある問題の解決が他の問題の解決を阻害するという方向性の分裂が厳しくなってしまうという宿命のようなものがある。第二次世界大戦の破滅に突き進んだのもその宿命に引き裂かれた面が強いと思うし、そのあたりの考察が文学でも社会科学でも十分に行われてきていないのが日本の最大の問題なのだと思う。

しかし詩の韻律を覚えるのに四苦八苦する学生生活などを送るのもきっと味わい深かっただろうなと今にして思うが、遠い昔の無意識の選択を今振り返ってみても小説の材料にくらいしかならないだろうなあと思う。


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