冷蔵庫/麻雀/古井由吉『仮往生伝試文』/カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

Posted at 06/04/27

昨日。午前中は冷蔵庫の修理が来るのを待つ、というなんとも落ち着かない時間。文章を書いたり、本を読んだりしてもなんとなく気もそぞろ。しかしそのうち、冷蔵庫は異音だけでなく異臭を発し始める。何かモーターが焼き切れたような、化学物質を焼いたときのようななんとも嫌な臭いだ。ここに至ってこりゃまずいな、とは思ったが、とにかく修理を待つしかない。しかしそれ以前にまずコンセントを抜かなければならない。コンセントは冷蔵庫と食器棚の間のごく小さい隙間にあるので手が届かず、冷蔵庫をうんしょと移動してようやくコンセントを抜いた。しかし異臭はやまず、台所の換気扇をフル稼働し、ベランダ側も通路側も窓を開け放ってとにかく空気を換気する。寒い。しかしやむを得ぬ。この匂いをかいでいると何だか気が遠くなってしまう。いわゆる気分が悪いというむかむか感ではなく、それでも確かに体にはやばいということがわかる嫌な臭いである。

とりあえず台所と居間から(私の住居は築23年の集合住宅で、昔の―今でもそういうのだろうが―LDKというヤツだから、キッチンがまずいと居間にも居られない。とにかく通路側の書斎にしている部屋に避難し、パソコンに向かって時間を潰す。ここのところAI麻雀に凝っていて、短い時間でさっと半荘こなす。学生時代のヘボ麻雀のころは半荘30分くらいかかったが、ゲームだと10分かかるかかからないかなので短い時間で気分転換するには結構いい。

最近桜井章一を読んでいて気づいたのは、配牌を積もりながらすでにその場の狙い、方針を決めているということ。ゲームでは最初の配牌が13枚ないし14枚同時に来るから来た時点でちょっと考えなければならない。私は今まで、「手なり」で打ってきていたのだけれど、それでは駄目だということにようやく気づいた。最初から何を狙うかは「決定」しておかなければならない。「決定」されていれば、鳴くのも面子を落とすのも大胆に出来る。もちろん間違うこともあるし間に合わないこともあり、方針を変更することも多々あるのだが、今何を目指すのか、ということを配牌の瞬間から誰かが上がる瞬間まで、常に意識していなければいけないのだ。手なりでうまく行くことももちろんあるのだが、それは確率が低いしいつでも「幸運」を願っているに過ぎない。自分で方針を持って常に何かを目指して努力する、そういう姿勢があって初めて強くなれるのだということがわかってきた。麻雀は努力のゲームなのだ。努力だけでは勝てないが努力がなくては強くなれないゲームなのだ。そういう意味で、非常に人生に似ているゲームである。

12時前に修理の人が来ていろいろ見てもらうが、結論としてはもう修理は不可能だということだった。この冷蔵庫も買ったのは昭和時代だし、平成6年に一度モーターを交換している。それからももう12年経っているのだからよく持ったというべきなのだろう。部品ももうない。多分そうかも知れないなと思ってはいたが、専門家にはっきり断言されると納得も出来る。15分ほど時間があったので家の裏のヤマダ電機でさっさと新しいのを注文して帰京したらすぐ新しいのを使えるようにしようと思って行ってみたが、どうも一見では決めかねる。よく見ると「即日配達」というのもあるし、それなら東京に戻ってから買っても同じだと思い、そのまま東京駅に向かった。

連休が近づいていて、普段使っている特急の回数券が27日から5月6日まで使えなくなる。昨日はぎりぎり使えた。ビューカードのATMでポイントをスイカのチャージに変換。2000円分溜まっていた。それで弁当を購入。新宿へ移動。車中エリオットを読む。これはもっとじっくり、というか真剣に読まないといけないと思う。彼の語る批評理論というのは、おおむね頷けるだけでなく感心させられる。きちんと吸収しなければいけないと思う。もちろん違うなと思うところもあるが、その違いの根拠もはっきりさせたいものだと思う。2時のスーパーあずさは所要時間が一番短く、停車駅も少ないのであっという間についた感じ。

車中では古井由吉『仮往生伝試文』最初の「厠の静まり」を読む。これでも小説なんだ、と驚く。何というか、今昔物語のような、夏目漱石の『百物語』のような、しかし一番最初に思い浮かべたのは太宰治の『晩年』、その中の冒頭の「葉」である。何だかひどく断片的で、どこに中心があるのかわからない。最後には日記形式になっていて、つまり主人公=作者の思考の中の話だった、ということが明らかになるのだが、いろいろな説話についての作者の思いや考えがある方向を向いて語られていることはわかる。つまりその構造自体がフィクション、虚構ということか。いったいエッセイや随筆と小説の境界はどこに引かれるのだろうと読み終えたときには思ったのだが、今考えてみると確かにこれは小林秀雄の『本居宣長』のように作者自身の存在が現実的な確固としたものではなく、「思考している自分」を客観的に、静かに観察しているようなメタな視点があり、そこに虚構性が発生しているのだなと思う。なんというか、小説のある種の極北なのかもしれないという気もする。一冊全部読んで見ないとまだ何もいえない、と思うのだが。

しかし時間にすればそれを読んでいたのはごくわずかで、大体はカズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫、2006)を読んでいた。(今気がついたが、これは文庫化されたばかりなのだ)これは530ページの長編なのだが、自分でも驚いたが昨日一日で読了してしまった。総計7時間ほどではないか。読み終えたときには自分でも本当にちゃんと読んだのかと疑うくらいであった。そのくらいストーリーに読ませる力があり、かといってそれがもりもり読んでいる、というかとんかつをよく噛んで飲み下すような読んでいるという強烈な充実感がある、というのではない。静かに紅茶を飲んでいたらいつのまにかいっぱいだったポットが空になっていたというようなごく自然な感じなのだ。(たとえ自体がなんともいえず不自然だが。)

そのように一気に読める作品なのだが、その内容について考え出すとちょっと呆然としてしまうくらい複雑でものすごくたくさんのものが詰め込まれている。今思いなおしてみると、『日の名残り』のような二人称小説という感じもかなり強い。執事、という設定と孤児あるいは探偵という設定はどこか似ている。ある社会の周辺にいるには違いないが、排除された存在ではない。アウトローでもなければ見捨てられた階級でもない。社会の中で確実なポジションを得ている。努力と才能次第で社会の中枢に食い込むことも出来る。どちらの主人公も自己認識と他者から見た自分がずれていて、そこにある性格的な悲劇が生じるのだが、それに対する作者の視点は暖かい。

この作品の展開の最も衝撃的な点は主人公の存在自体が悪意と愛によって生かされていたということを知るどんでん返しにあるだろう。このあたりは推理小説的な仕立てになっている部分の多いこの作品を成り立たせる最も重要な点なのでネタばれ的なことを書くのは避けるべきだろう。ここでは、主人公の生活そのものがある取引によって成り立っており、ある犠牲、ある限りない愛によって彼の生が成り立っていたということのみを書いておくに留めたい。そして、彼は彼が救おうとした人によって救われる。そしてその人は彼を救うことになるだろうということをあらかじめ知っていた。

彼は探偵として世の中の悪に立ち向かい、「世界を救う」ために「世界の混乱の中心」である上海に向かう。その租界は植民地ですらない。世界が悲惨であることの責任を認めようともしない上海の支配階級。イギリス人も、国民党政府も、新たに支配者となろうとしている日本も、殺戮ばかり繰り返す共産党も。彼は「世界を救う」ことよりも「愛」を選ぼうとするが、その選択のときに公的な事件がシンクロして起こることは『日の名残り』と同じ構造だ。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公自身の「癒し」と「愛」のどちらを選択するかという時に明確に後者を選択するのだが、イシグロの登場人物は「選択」することを拒否されているかのようである。あるいは人間は選択することが出来る、ということはある種の「神話」なのではないか、といっているような気さえする。村上は選択に近づき、イシグロは選択から遠ざかる。

村上の登場人物は、正体不明であってもやがて「善」と「悪」(少なくとも彼の物語世界にとっての)がおおむねは明確になっていく。そこにリリカルなものがある。ただひとつ、巨大な悪でありながら重要な登場人物を生かす存在として「皮剥ぎボリス」があり、今考えてみると彼の存在が『ねじまき鳥』の物語世界に圧倒的な厚みを加えていることがよく認識できるのだが、イシグロの場合はそういう存在をもっと明確に自覚的に描き出している。そこに「ナチス」や「帝国主義」というものが存在した現代ヨーロッパ文学の厚みがあるといえるのかもしれない。今思い浮かべるのはオーソン・ウェルズの『第三の男』だ。よく考えてみると、悪を悪としてのみは描かないウェルズのスケールの大きさは、現代アメリカにはほとんど全く受け継がれていない。(日本に関しても、そういうものは日本にはもともともっとあったはずなのだが、今ではアメリカの影響を受けたのか、酷く一面的になってきている)アリダ・バリ演じた女性の存在の厚みを、「女とはそういうもの」としてのみ受け取っていたのでは意味がないのだ。「女」ではなく、「人間」がそういうものなのだ。

イシグロの叙述は淀みなく、流麗だ。鴨川の流れのように、瀬音を立てて穏やかに流れていく。主人公は懸命に努力するのだが、その努力が「間違っていた」ことが明らかになる。そしてそうした主人公に作者は優しい。人生をかけて壮大な間違いをおかすことが人生なんだ、といっているのかもしれない。人は間違いながらでなければ前には進めない、間違いはきわめて悲劇的ではあるけれども、それでも人は前に進む。

『わたしたちが孤児だったころ』は『日の名残り』のようには作者が方法論に対して意識的ではないが、現実世界における善悪の表裏一体性や愛と犠牲といったテーマにはより意識的である。「20世紀の悲劇」あるいは「近代の悲劇」をどう受けとめ、それにどういう答えを出すか、ということを作者は明確に意識しているように思われる。その悲劇を描くのに、宿命的な重層性の中に存在する戦間期の歴史的「上海」を舞台にして、これだけの作品が書ける作者の力量に、脱帽である。

今日は雨が降っている。家の裏の桜は今が盛りだ。ストーブをつけている。庭先のハナカイドウも蕾を膨らませ始めた。空が明るくなってきた。雨が上がるのかもしれない。


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