村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』と『ノモンハンの戦い』

Posted at 06/04/20

今日は朝から荒れ模様だ。風は強いし、雨も断続的に強く降っている。春の嵐。この部屋は、外の様子がよくわかる。家の後ろの、桜はそれでも、だいぶ開いてきた。もう数日で見頃になるだろう。

昨日は午前中散歩に出かけ、お城の桜を見に行ったのだが、まだここも満開というほどではなかった。しかしもう花見気分の人たちはたくさんいて、お城の護国神社も華やいだ雰囲気だった。染井吉野だけでなく、やや紫がかった私の好きな桜(里桜系だと思うのだが、品種はわからない)も咲いていて、満足だ。昨日は水曜で駅前の商店街は休日なのだが、お城の向うの三〇〇メートルくらい歩いた川の向うの書店は開いている。この書店は昔は仕事場の近くにあったのだが、広い場所に移転して、文房具も書籍もそれなりに置いてある。思いついて、この書店に歩いた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が気になっていたので探すと、三冊揃っていた。とりあえず第一部のみ購入。

向かいのセブンイレブンに入り、黒糖カリントウとほっとレモンを買って、川を渡り『文学の小径』を歩く。ここも桜が植わっていて、ここの桜は見頃だった。この道はよく歩いたのだが、ここから分かれる道がいろいろな場所に出るのだということを先日知った。そっちの方にもまた歩いてみようと思う。石碑がいろいろ建っているのだがあまりまじめに見たことがない。なんというか申し訳的な感じでどうも風格がないのだ。周りは新造の普通の民家だし。終点は別の川で、三つ又の中洲が二つ続いているという説明しにくい地形。橋を二回渡ってまた別の川沿いに出、ここにそって上っていく。家の近くを流れている川はこれなのだ。

何を読もうかとしばらく考える。しばらく考えた結果、『ノモンハンの戦い』と『ねじまき鳥』を少しずつ読み、エリオットの『文芸批評論』も少し読むことにした。『ノモンハン』はソ連側の戦場の記録なので、どういう作戦に基づいてどういう戦闘が行われたのかということが詳しく書いてある。戦闘は1939年の五月・七月・八月に行われたが、今読んでいるのは最後にして決定的(だと思う)八月の戦闘の部分だ。五月・七月は日本側が仕掛ける形で行われたが、八月は主導権をソ連側が取っている。航空機などではソ連側が有利で、戦車数はソ連側が四倍だったという。この優勢をもって、先にソ連側が仕掛けたということなのだろう。ロジスティクスでも、ソ連側の補給体制はしっかりしていたようだ。戦闘の描写というのはどうもあまり読むのが気の進まないものなのだが、地図などは頭に入るので、地形的にどのようなところで日本が何を目指していてどういうところで行われた戦闘だったのかなどは理解はできる。少し読んでは止め、でまだ六〇ページほど。残りは三〇ページなのだが。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第一部泥棒かささぎ編』(新潮文庫、1997)を読み始める。これは(この日記を書いている)現時点での感想を書いておこう。今110ページまで、「5レモンドロップ中毒、飛べない鳥と涸れた井戸」の途中。『スプートニクの恋人』の感想にketketさんが反応してくださったが、やはりなんともいえない違和感を感じる人はいるよなあ、と思う。『ねじまき鳥』もまた、奇妙な身体的不快感がある。胸がむかむかする、というような。しかしこの小説には奇妙な勢いがあって、読んでいて途方にくれるというより、あっけに取られる。ずいぶん強引に、知らないところに連れて行かれる感じがする。

物語の登場人物たちは、最初はそこにいるのが当たり前のような顔をして(つまり匿名性の高い一般の人間のような顔をして)小説にでてくるのだが、読み進めていくにつれてどんどん変な人たちだということがわかってくる。そこにはある程度普通な「変」さもあるのだが、あまり普通でない変な人物たちも出てきて、しかし、実際にはこういう人間は自分の周りにも結構いる、ということに気がついていくイヤさ加減というのは一級品である。

しかし、小説で「狙って」変な人物を登場していることはよくあるのだが、たいてい破綻して読むに耐えなくなるのだけど、村上の場合は世界の統一性が実に堅牢で崩れない。世界のバランスが保たれているのである。奇妙なバランスではあるのだが。しかしいずれ、バランスは崩れ、アッシャー家のように崩壊してしまうのではないか、という感も持つ。しかしおそらくは、この崩壊状況はそんな簡単には訪れない。ことによると崩壊が起こる前に崩壊自体が不全化して「アンバランスが取れている」(昔よく言った冗談だ)中途半端さで停止するのかもしれない。

われわれのすんでいるこの世界も考えてみれば相当奇妙なバランスの上に立っている。村上を読んでいるとやはりそれに気がつかざるを得ない面もあって、その掘り下げたり積み上げたりする力の強弱が村上作品の個々の評価につながるのかななどと考えてみたりする。

奇妙な人物の一人にノモンハンの生き残り、という人物がいて、当時の日本陸軍の惨状が描写されているのだが、「目の前が河なのにその前にソ連の戦車が陣取っていて水が飲めない」という情景は今読んでいる『ノモンハンの戦い』の地図を思い浮かべればこれも肉体的に看取してしまうことで、この砂漠のような場所での戦いでの日本側のロジスティクスの弱さは致命的だっただろうと思う。七月の戦闘では日本が先制して先に河を渡り、河の向こう側での戦いになったので、水の補給などはそこまで深刻視しなかったのかもしれない。いずれにしても、「準備不足」は否めない。戦争が臨機応変で臨まなければならないのは当然だが、「準備」が欠けていることがいかに致命的か、と思い知らされる。『日の名残り』の執事スティーブンスの周到な準備計画と獅子奮迅の働きぶりが思い起こされる。

***

エリオットの『文芸批評論』はいくつかの批評の翻訳なのだが、昨日は「伝統と個人の才能」という文だけ読む。解説を先に読んでエリオットの批評の背景を理解することにしたが、それによるとエリオットはロマン主義の「個性重視」の印象批評に反対し、「個性に価値があるのではなく、伝統に価値がある」のであり、創作のためにも批評のためにも歴史的感覚が重要だ、というようなことを言ったらしい。なるほど印象批評とロマン主義というのはそういうところで結びついているのかと感心する。

本文の方はどうも訳が古いのか、意味の通らないところが多くて原文の単語を想像するために和英辞典でその単語を引いてこれかなと思ったのを英和辞典で引きなおすという面倒なことを何回かやって、まあ大体わかったかな、という感じ。翻訳というのは難しいものだ。哲学や社会科学の用語なら「定訳」というものが確立していて奇妙な訳語でもまあ想像は(難しいけど)何とかできるということがないでもないが、文学用語というのはもっと微妙なものなので定訳というのもないようだし(知らないだけかもしれないが)、結局は訳者のセンスに全面的に依存することになってしまうのだろう。

内容で面白いと思ったのは、詩人(創作者)の精神は化学反応における触媒の役割を果たすのであって、「神秘的な個性」が創造するのではない、ということで、これはいつも私自身が感じることだ。逆にいえば、触媒(あるいは媒体、お筆先、巫祝、etc)的なものでない創造的個性の存在など一瞬たりとも信じも想像もしたことがないということに気がついた。つまりは自分の「才能」を強く意識している人というのは「個性」信者だ、ということなのだろう。まあもちろん触媒としての能力というものもあるから能力が関係ないということでは全くないのだが、「神秘的な力」に基づく自信、というものを持っている人が理解しにくいのは私の見方の問題なのだなと納得した。

で、結論としてエリオットは「詩は情緒の解放ではなく情緒からの逃避であり、個性の表現ではなく個性からの逃避だ」というわけだ。情緒というのはatomosphere、つまり雰囲気とか気分とか言った方がいい内容を意味し、逃避はescapeだろうから脱出とでも訳したほうがいいのではないかという気がする。いわゆる「エキゾチックな描写」などの雰囲気描写のみに陥ってはならず、個性や天才でなく伝統や歴史感覚の中で自己の位置を確かめ、新しい創造を行うことこそ重要だ、ということを言いたいのではないかと思う。単純に言えば、バイロンのような雰囲気描写と自らの分身のような登場人物の疾走のみを書くタイプの作品を批判し、それを称揚する批評を批判しているのだと思う。もしそうなら、すでにプーシキンは同時代からそういうバイロンの姿勢を批判しシェイクスピアなどにひかれる別の創造を始めていたわけで、そういう側面からプーシキンを考察するのも面白かもしれないと思った。

***

昨日の夜の仕事はまあまあの忙しさ。合間を見て有機化学の勉強。フェノール類とか。ときどき有機でない部分でも不確かなところがあり、教科書でも読み直したほうがいいのかなとも思う。パソコン関係のトラブル2件。電話関係のトラブル1件。解決済み。

FMの「私の名盤コレクション」の今週のゲストは王様。この人まだいたのかと思ったが、相変わらず爆発的に面白い、というかもっとグレードが上がってる感じ。大笑い。

うさたろうさんの日記でみつけた成分分析 on Webの結果。

kous37の解析結果

kous37の84%は夢で出来ています
kous37の10%は時間で出来ています
kous37の3%はマイナスイオンで出来ています
kous37の2%は言葉で出来ています
kous37の1%は成功の鍵で出来ています

なんか笑う。84パーセントは夢ですか。本名でやってみたら48パーセントが食塩、40パーセントがカテキンだった。昆布茶か俺は。グルタミン酸がないか。

ketさんのところにあったモテぢからというのもやってみたのだが、点数的にはよかったけどポジティブ度が低くて何だかああいわれてみれば最近そうだなと思う。いいと思うことを感じるより、いやだとか悪いとか感じることが多く、ネガティブ度が相当上がっていることは事実、というか村上に影響されて本来もっているそういうものが噴出しているのかもしれない。

雨が強くなってきた。天上でも何かが噴出しているのだろうか。

気がついたらじっぽさんにもお勧めされていた。皆さんに言及していただくとありがたい。それだけ村上春樹と言う人が大きな存在なのだろう。


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