ロシアン・ルーレットの起源/須賀敦子と世界文学
Posted at 06/03/30
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昨日はだいぶ時間があったので、かなり本が読めた。レールモントフ・中村融訳『現代の英雄』(岩波文庫)読了。この小説、普通の意味で面白い。プーシキンのように真実の美を表現しているという感じはないけれども、言い回しや人生に対する洞察などで唸らされるところが多い。27歳で死んだ詩人とは思えない。プーシキンは一までも若い永遠の若者という感じで、そこが痛々しくもあるところがあるのだが、37歳での死というのがいかにも非業の死という感じになる。レールモントフはもっと若いのだが、いきなり老人というか、人生のすべてを見切ってしまったようなところがあって、私は12歳ですでに老人だった、とかいう小説があった気がしたが、若く絢爛たる美貌の青年の心中が憂鬱癖があり鬱屈を抱え老成を余儀なくされるという主人公の感じがなるほどと思う。まあ少しでも鬱屈を抱えたことのある人間ならそういうところで共感できるところはもちろんあるのだけど、その表現の絢爛さは真似できないなと思う。解説にあったメレジコーフスキイの「プーシキンをロシア詩の昼の光とすれば、レールモントフは夜の光だ」ということばは、やはり私と同じように感じる人はいるのだなと納得させられた。
それから「ロシアン・ルーレット」に類似した場面が出てきて、この危険な遊戯の起源はこの本なのではないかと考えさせられたが、実際はどうなのだろう。
***
今まで積読で読んでいなかったものを読もうと思い持って帰ったのが須賀敦子『本に読まれて』(中公文庫、2001)であった。須賀敦子という人は名前は以前から聞いていたが、あまり読む機会がなく、『本に読まれて』も数年前に買ってあったのだが、ほとんど読んでいなかった。これは確か福田和也が上流のハイソな雰囲気を味わうなら白洲正子か須賀敦子だ、みたいなことを書いていて、白洲は私は手当たり次第にすべて読んだ(まあ読み残しもどこかにあると思うが)から須賀を読んでみよう、くらいの気持ちで読んでみて、全然そんなものではなかったので途中で投げ出したことを思い出した。まあ考えてみたら白洲を「ハイソなおばさん」扱いする人のいうことを真に受けても仕方がない、というか福田は福田なりのたくらみがあってそういう言い方をしたのだろうと思うのだけど、こちらもそんなものに素直に引っかかっても仕方ないことだったなと今では思う。
で、なぜ読み直す気になったかというと、本屋で読んで気になり、図書館で借りて読んだイタロ・カルヴィーノの訳者が須賀だったからだ。こんな面白い本の訳をする人だから面白いんじゃないか、と思って再び読み出したのだが、今回読んでみると前回と全然雰囲気が違い、先入観がない分だけ非常に面白く読んでいる。というか、須賀の文章というのは非常に骨があり、内容が濃く、とてもとても一気に読みきれるような文章ではない。読み始めてからこれはノートを取る必要があると思い、私はA4のコピー用紙にノートを取ってあとでホッチキスで留めて保存するというノートの取り方をしているのだが、それでもう4枚分も気になる部分を書き留めた。蛇足だが、この方法は取るときは取りやすいのだが整理が面倒だ。しかし単価の安さとか(実は没にした用紙の裏に書いているので1枚0円)書くときの気軽さとかを考えればこの方法で整理の仕方だけ納得のいくやり方が考えられれば結構いいのではないかと思っている。と、いうわけでまだ今のところ半分くらいしか読めていない。
須賀は、私が今まで本気で読んだ中で一番「現代文学」に近い人なのだと思う。現代文学がいつから始まるかというのは難しいが、ひとつのメルクマールは第一次世界大戦後の「西欧の没落」以降のもの、もうひとつのメルクマールは第二次世界大戦後の非西欧諸国の独立と米ソの政治的・経済的優越の成立以降のもの、ということになろう。そう考えると、第三のメルクマールは冷戦構造崩壊後、あるいは911後ということになるかもしれない。社会主義の敗退後、あるいは「テロとの戦い」後の世界文学がどのようになっていくのかというのはかなり重要な問題だ。
しかし、これは文学が政治に従属している、ということではない。というか、文化的には、文明的には、いまだに西欧が世界のグローバルスタンダードであることは変わっていないと思う。しかし他を省みる必要を感じなかった驕慢な第一次世界大戦以前の西欧の姿勢はいまや放擲せざるを得なくなったわけで、第一次世界大戦後はその動揺を表現した文学が、第二次世界大戦後はいかにして非西欧世界の文化・文学・文明を西欧の既成秩序の中に位置付けていくかという試みがなされたということだろう。ポストコロニアル・カルチュラルスタディーズといった試みは基本的には西欧側からのそうした「良心的」な試みと見ていいが、そこに西欧的な価値観(西欧近代科学的な視線・「人権」至上主義など)が貫徹している点において新たなる帝国主義的な意味合いがないとはいえない。それはフェミニズムや人権概念の「押し付け」という面でも帝国主義的である。
つまり文学は政治に従属しているのではなく、文学(あるいは文化)も政治も人間の生の一局面なのであって、文学・文化が政治を動かす枠組を決定しているという側面も強調されなければならない。そして、「世界文化」を標榜しているのは現在のところ西欧文明だけなのであって、それは弱体化しながらもいまだにグローバルスタンダードであることは否定し難い。日本もまた、そこへの参入を申し立てている存在に過ぎないのであって、「西欧の一員」にはなりえないことは深く自覚すべきだろう。したがって、われわれが西欧文化の見直しに本当の意味で参加することは出来ないのであって、われわれはわれわれの文化と西欧文化、またその他の文化を加えて新しい融合的な世界文化を創りあげることしか可能性としてはありえないのだと思う。そのための方法論として、ポスコロ・カルスタといった手法が有効であるかどうかは、私にはまだわからない。しかし911後の現在において、また状況は変わっているかもしれない。いずれにしても、世界文化の発展、そして平和のためには、お互いがお互いの文化を尊敬しあい、学びあう姿勢がないことには話しにならないと思う。これもまた困難な点が多いことは承知しているが。
というようなことを須賀を読みながら考えさせられた。そのほか紹介されているさまざまな本も面白そうだし、池澤夏樹という作家の魅力はかなり納得させられた。私とはかなり好みやセンスが違う人であることは確かだが、読み応えのある文章だと思う。なくなられてからその魅力に目覚めることが私には多いが、この人もそういう人だなと思う。
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