大阪にふさわしいキャラクター/ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』

Posted at 05/12/28

昨日帰郷。やはり信州は寒い。ストーブの上に乗せた薬缶に水を入れたままにしておいたら中の水が凍っていた。家の中も零下まで下がっていたということだ。今朝も起きようとしてもなかなか起きられない。サッシは凍り付いていてあけられない。この時間になってようやくとけたが、これから長い長い冬が続くのだなあと思う。

清原はオリックスのユニフォームが案外似合う。なんというか、清原というキャラクターは基本的に大阪ローカルのものという感じがする。新庄は全国区になるために阪神の12億円を蹴って2000万のメッツに行き、北海道にも渡ったというが、新庄のように浮遊感のあるキャラはそういう行動が似合う。中村もメジャーへの挑戦も懲りたようだし、来期は二人で大阪らしい野球をやってもらいたい。清原に一番似合っていたのはこっそり言うとPLのユニフォームだった。

今回の郷里滞在のスケジュールははっきりしないまま移動してきたのだが、1日に上京して3日にまたこちらにくるということにした。やはりお年取りと正月の雑煮はみなで膳を共にしたいものだと思う。

ちょっと歴史からあたまを切り離そうと思い、今回はそういう本は持参せず。読みかけの『文房具を楽しく使う』とヘッセの『庭仕事の愉しみ』。文房具の本は万年筆のところを読んでいたのだが、メーカーごとの考察があるかと思ったらそういうのはなくちょっと拍子抜け。私は以前も書いたが昔はモンブランを使っていて今はウォーターマンを使っている。パーカーは使ったことがない。今のウォーターマンは割と気に入っている。

『庭仕事の愉しみ』を読む。いいなと思う言葉が多い。読書の楽しみというのは、そのように愛すべき言葉に出会うことが一つ大きなウェイトを占めていると思うのだが、最近はそういうフレーズに余り出会う努力をしていなかったなと思う。芝居を書いていたりしたころはそういうことに一番関心があった。小林秀雄を読んでいて心が充実するのはそういうところにあるのだなと思い当たる。

  私から去れ 太古からの人間の苦しみよ!
  たとえすべてが苦しみであり
  すべてが悩みと影であるにせよ――
  この甘美な日の照るひとときだけは
  そして赤ツメクサの香りだけは
  私の心の中の この深い優しい幸福感だけは
  苦しみでも悩みでも影でもない。

「草に寝て」という詩の一節。幸福というものを歌うことは難しいが、このように逆説的に語ることで何が確かなものであるかをはっきりさせる表現方法はあるなと思う。

「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱みのためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている。その梢には世界がざわめき、その根は無限の中に安らっている。しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力を持ってただ一つのことだけを成就しようとしている。それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分自らを表現することだ。」

木の立ち姿を自己表現であるととらえるとらえ方はいいなと思う。ドイツ人たちがこうした巨木の群だとしたら、日本人たちはやはり照葉樹林の雑木林だろうか。木を人に喩えるのもいいが、人を木に喩えるのもなんだか楽しい感じがする。

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