同志社大生の女子小学生殺人/サッカーワールドカップ組み分け決まる/科学と戦うための文学

Posted at 05/12/10 Trackback(1)»

昨日帰京。特急の中ではほとんど目を閉じてすごす。大月を過ぎたあたりでだいぶ飽きてきたので小林秀雄『本居宣長』を取り出して少し読んだ。新宿で夕刊フジを買い、ちょっと読む。帰ってきて地元のローソンで雑誌コーナーを見たらビックコミックの最新号が出ていたのでそれも購入。しかし新聞もマンガも今回はあまり面白くなかった。毎号クライマックスが来るわけではないからしかたがないのだけど。

朝起きたら9時。ニュースを見ていたら塾講師の同志社大生が小6の女児を教室で刺殺したとの報道。ちょっと考えられんな。しかしこの男は以前に同志社の図書館で窃盗で取り押さえられたところを刃物で警備員に怪我を負わせて1年半の停学を食らっているという前科があったという。もちろんそんなことは塾側には知らせなかっただろうが、退学させなかった大学側の措置が結局はこの事件につながったといえないこともない。それにしてもどうして短期間にこうも小学生がらみの事件が続発するのか。

『談志陳平の言いたい放題』を見ていたら談志が門下生を5人並べて”本家”「笑点」という企画をやっていたが、これは腹を抱えるくらい大笑い。弟子たちもすごいがやはり司会者の談志の切り返しや無理難題と思える問題の出し方がすごい。座布団でなく現金をやったり取り上げたり(500円単位だが)というやり方も弟子の一人が「こんな殺伐とした大切りのどこが面白いんですか!」と叫んでウケを取っていたがひとつ間違ったら酷いことになるのが笑えるところがすごいと思う。家元を喜ばせることを言いなさい、というお題で「アメリカにテロリストが30人潜伏したそうです」といったら1000円やっていたり、「円楽党の前座が談志師匠は天才だといってました」という毒がやたらにきいたネタを使っているのに本当にただただ純粋に笑えるところがたいしたものだなと思う。談志個人で見ても面白いが、こんなふうに弟子たちとの掛け合いをするのもまた無類に面白い。東京MXテレビの映る地域ではあした日曜日の朝6時から再放送があるのでぜひみてもらいたいなと思う。

ワールドカップの抽選はブラジル、クロアチア、オーストラリアと同じ組だという。ブラジルと同じ組、ということでショックを受けている人が多いようだがどちらにしろ強豪チームが入ることは間違いないんでまあブラジルとやれるというのも面白いんじゃないかと思う。ワールドカップの本大会でブラジルとぶつかるなんてことはなかなか出来ないことだ。三浦カズが「全部自分のプレーしたことのある国だ」といって驚いていたがそういう偶然というのもあるのだなと思う。ぜひ1次予選を突破し、結晶でブラジルと再戦するくらいの勢いで頑張ってもらいたいものだと思う。

千葉テレビを見ていたら(何だかローカル局ばかり見ているが)ヴァンフォーレ甲府が柏レイソルをリードしていた。今ネットを見たら甲府が圧勝したらしい。これで甲信越地方も山梨と新潟がJ1にチームを持つことになる。長野県は・・・まあやめとこう。

今日はなんとなくのんびり過ごそうと思っていたが本当にいろいろやる気が出ず、友達と電話で喋ったりテレビを見たりしつつ、『本居宣長』を読んでいた。ようやく上巻読了。読み始めてからいったいどのくらいかかっているのか。この本は、一気に読めないように出来ているとは思うが、特に源氏のところや江戸時代の思想史について書いてあるところは読みつつ考え、ほかのものも調べたりノートを取ったりしながら読まないと意味が取れず、かなり苦労した。下巻に入ると古事記関係のことのようなので少しは読みやすいかもしれない。

おそらくは、文学関係の人には常識のようなことなのだろうけど、私は歴史のほうからしかこじきというものを考えたことがなかったので、宣長が述べ小林が解説するようなこじきの編纂意図が漢字到来以前の日本のことばを漢字で写取ることを目的として編纂されたというような解釈は全然知らなかった。何らかの形で書き残された古文書を稗田阿礼が暗誦してそれを太安万侶が記録したというのは、小学生のころからなぜ「暗誦」する必要があったのか疑問を感じていてはいたのだが、「言葉」自体を書き留めるための努力だったのだといわれたら目から鱗が落ちるような感じである。現代人は古事記などに書かれた言語の意味を軽んじ、「客観的な科学としての歴史」を重視するが、そうした観念もまた言語によって巧みに表現されたものに過ぎないという指摘も非常に重みのある一言であると思った。

結局今まで、そうした科学の側に無意識に立っている自分というものをどうしても客観的に意識することが出来なかったのだが、文字や言葉、文学の側からようやく自分のいるところというのを眺めなおせたような気がする。もちろん私はデカルト主義者としての近代科学万能主義者でないことは今まで何度も書いてきている通りだが、だからといって前近代主義?の側に立つのには必要な何かが決定的に欠落しているという感じも持っていた。その一面が「ことば」の問題にあることはどうやら間違いなさそうだ。「からだ」の問題の側からは自分なりにさまざまなことを考えては来たが、「言葉」の問題に入るにはいったいどこが入り口なのか分からない感じがあった。今現在それが見えているかといえばそうもいえないのだが、ちょっと黒雲の切れ目に少し月明かりが見えたような、そんな感じがしている。

まあもうちょっと自己改造というか自己開刀には時間がかかりそうだが、まあいろいろと面白い。小林秀雄というのは付き合いがいのある人だなと改めて思う。

科学というものと戦うことが出来るのは、結局現代においては文学だけなのだなという気がしてきている。というか、それ以外の方法も可能なのだろうけど、(呪術とか)、自分で出来る可能性が万分の一でもあるのは言葉を操ることだけだろうとは思う。それが文学というべきなのかどうかはよくわからないが。


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