学力と常識

Posted at 05/11/23

昨日帰郷。出るのがぎりぎりになってバスに乗る。結構こんでいた。東京駅で弁当を買い、中央線に乗る。御茶ノ水で快速線が豊田駅で信号機故障との連絡。緩行線に乗り換えて各駅停車で新宿に。特急は2分遅れで出て10分遅れで到着した。実質的な影響はほとんど無し。

電車の中で『丹田を創って「腹の人」になる』読了。呼吸法はいろいろ興味深い。ただ、朝目が覚めたときに腹に少々筋肉痛を覚えたのは、いろいろ試してみたせいか。からだと相談しながらちょっと研究してみたい。

『本居宣長』14節まで進む。要約はしないが、契沖から藤樹、仁斎から徂徠へ話が行ってようやく宣長に戻ってきた。「もののあはれ」についての話が続く。多いに引きつけられるものがあるが、うまくまとめて書けない。書こうとすると、また長大なものになるだろう。「歴史意識」と「道」の話には大いに感ずるところがあったのだが、これもまたうまくまとめては書けない。何度も読み返しながら考えることになりそうだ。

高校生などで、古文は出来るが現代文ができない、という人が多いのはなぜだろうということを少し考えていて、古文や漢文は語法はもちろん勉強しなければ分からないが、内容は(特に初学者があたるものは)そう難しくないし、常識で類推すれば分かるものが多い。しかし、現代文で扱う文章は深く哲学的であったり文学的であったり、つまりあまり常識的な内容ではなく、挑発的であったり突飛であったりイデオロギー的であったりする、ということもあるからではないかと思い当たった。自分が現代文が不得意だと感じたことがなかったのでその感覚は理解しにくかったのだけど、常識をわきまえていればいるほど現代文が不得意になる、ということは逆説的だがあるのかもしれない。私などはまあ相当非常識だったのだろうと思う。

と、そんなことを考えたのは、「もののあはれを知る」ということが本来子どものころに持っていたみずみずしい感覚を保持するための「道」だ、というようなことが書かれていたので観念操作の得意不得意ということを連想したからのようだ。ここのところずっと古文に属する文章を読むことが多くなっているせいか、もう少し古典文法やら古語の語義語源などをまともに勉強しなおしてみたいという気持ちも出てきている。受験は今思うとかなり適当な勉強のしかたで乗り切ってしまい、そういうその場しのぎの要領のよさが後で祟るということが私の人生にはあまりに多くて何だなと思う。

『20世紀の歴史家たち』は徳富蘇峰と白鳥庫吉の項を読み終わる。蘇峰は別の本で読んだときの方が感銘があった。白鳥は東洋学者として日本の東洋学を西欧の研究レベルに引き上げたという功績が大きいのだということを再認識。昔の歴史家たちの仕事や努力には頭が下がり、感動を覚えることが多い。

仕事はまあまあ忙しくも有り忙しくもなく。就寝前に少しドイツ語をやる。

ダイヤルアップで接続しているこちらの回線も電話料金が高いのでADSLにした方がいいかと思っていろいろ調べてみたが、今より安くなることはなさそうだ。それよりNTT東日本のiアイプランというのが1200円で3000円までかけ放題、というのがあってこれだと月々1800円安くなる計算になる。遅まきながらいろいろと工夫。

朝は寒かったが、10時を過ぎてだいぶ暖かくなってきた。今日は勤労感謝の日。これから松本に出かけ、仕事は休みなのでそれぞれの仕事の準備と勉強とかきものをしようと思う。

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