古い帰化人/ベネツィア/若気の至りによる浅薄さ

Posted at 05/10/13

きのうは書き物を進めつつ『プリニウス書簡集』を読んだりラテン語の勉強を進めたり。午後から夜は仕事。あまり忙しくなし。それもまた困るのだが。

朝起きて仕事のし残しに気づいて仕事場に行き、仕事を片付けると藤堂明保『漢字とその文化圏』(光生館、1971)という本が目に入る。何の気なしに読み始めたら、日本の漢字文化の成立、というところで東漢氏と西文氏ら「古い帰化人」は6世紀には漢文読解能力を失っていて、「新しい帰化人」が重用されるようになった、という話を読んで非常に興味を引かれる。藤堂氏は中共べったりと言う印象であまり読んでいなかったが、イデオロギーでない部分で先学の仕事は学ぶところがたくさんあると再認識させられる。松本に出かける電車の中ででも読むつもり。

帰って来ていろいろやりながらテレビをつけたらBS2で今日はベネツィアの旅をやっていた。これもいろいろやりながらなんとなく九時まで見てしまった。世界には伝統の中で暮らしている人がたくさんいるんだなあと思ってなんだかほっとし嬉しくもなる。翻ってわが日本は…と思ってしまうが、まあ最近そういう進歩に取り憑かれた狂人のような日本の趨勢と自分との間に明確な断絶を感じ始めている。最近、この日記でも時事的なものを取り上げるのはめっきり減ってきた。そうなるとアクセスも落ちるし日記才人などの投票も減るのだが、まあそれはそれでいいかなという気がしてきている。どうしてもコメントしたいと思うことが出てきたらするかもしれないが、今自分の一番の関心事はそういうところにはないようだ。

日常の態度で表面だけ取り繕う、ということをかんがえていたが、考えてみたらその言葉は内面では反対しているのに、とか納得していないのに、という前提があるわけで、表面のことをうんぬんする前に内面を何とかしなければいけないということなんだよなと思う。そこに憤懣や不満があって表面だけ取り繕うと言うのは確かに嫌な感じだが、内面的なことを思考か行動によって解決しつつ、表面を社交のためにご機嫌に維持するということは悪いことではないと思う。私はそういう若気のいたりによる浅薄さのような部分をいまだに持っているところがあるので、そういうところはすっきりさせていかなければならないなと白壁の土蔵の前の路地を歩きながら思っていた。

ロッテがソフトバンクに先勝。かっこつけても、いやかっこつけたからか、まあそういうことも書きたくなってしまう。シャイネスをまたシャイに説明するのはいかがなものとも思うが。

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