恐怖心を克服することの幸福と危険

Posted at 05/08/04

なんだろう。昨日はそう忙しくはなかったのだが気疲れすることが多かったせいか、今朝はどうも疲れている。数日前に書いた覚書がどこかに行ってしまってだいぶ探したのだが出てこない。もう一度自分を見つめなおして書きなおすということか。人生いろいろだ。
『キリマンジャロの雪』、ようやく全一冊読了。最後の短編は「フランシス・マコンバーの短い幸福な生涯」。アメリカ人の金持ちのコキュとその浮気な妻、恐らくはイギリス人の職業狩猟家がアフリカで狩をする。マコンバーはライオンを前に恐怖心から逃げ出し、妻マーゴットは愛想を尽かして同じテントで狩猟家ウィルソンと浮気する。どうやらこの妻はマコンバーの財産のために離婚しないだけで、何度も同じことを繰り返しているようだ。しかし水牛を撃ちに出かけたとき予定外の自動車の爆走によって水牛を追跡することになり、その興奮の中でマコンバーは恐怖心を克服する。恐れずに水牛に立ち向かう夫と狩猟家を見た妻は「一人前」の男になった夫に恐れを抱く。マコンバーは恐れずに水牛に立ち向かうが、銃は何度も急所をはずし、ついに水牛にのしかかれる。狩猟家と妻は銃を放つ。妻が撃ちぬいたのは水牛ではなく夫の頭だった。それは錯誤か故意か。

題名の意味するところは、勇気を持った男として生まれ変わったマコンバーが短い充実した生を突然一発の銃弾によってたたれたこと、といってよいと思うが、解説を見るとこれはアイロニカルな表現ということになっているけれども、単にアイロニーだけでなく、その短い期間マコンバーは幸福であったと思う。それを女が殺すのは、恐れのゆえか無理解のゆえか、いずれにしてもそこに「愛」が介在していたら違う結論に達したと想像される。

しかし、考えてみると本当にそうかどうかはわからない。そこに愛があっても、女は男を撃ち殺したかもしれない。相手が自分の理解を超えた人間になったとき、自分のコントロールのきかない人間になったと感じたとき、そこに殺意のようなものを感じるということはありえないことではない、と思う。いずれ、男というものと女というものとの間にある種の絶対的な「溝」というものが存在することを否定できないので、こうしたことが絵空事にならないのだろうと思う。

この小説は一人一人の人間のティピカルな部分がよく書けていると思う。マーゴットの悪女性というものに注目が集まっているようだが、恐怖心を克服し勇気を持つことが出来るようになるまでの過程というのは、人間にとってある重要な過程であることは確かだろう。アイロニカルな結末を迎えるがそれはひとつの成長過程の描写でもある。「いかなる勇者も必ず三度はライオンにおびやかされる-はじめて足跡を見たとき、はじめて咆える声を聞いたとき、はじめて面と向かい合ったとき」という「ソマリ人の諺」を引用していることからも、作者はただ臆病な人間としてマコンバーを描写しようというのではなく、彼がいずれ「勇者」となることを暗示している。

しかし彼が勇者として永らえず、妻に撃たれるという結末に終わったのは、結局は水牛の急所をはずす、つまり技量的な不足から不幸を招いたということになる。人として生きるためには勇気も必要だが技術も必要だという教訓が、まあ当たり前のことだが出てくる。恐らく、勇気を持つことによってそれまでとは違った技量がまた必要になる、といってもよいことだし、狩という場面でなくてもある局面において心が決まったとき、今まで必要と思っていた以上の技術が必要になるということは、我々自身も経験するところではある。まあこのあたりも「読み」出したらいろいろなものを汲み取ることが出来るかもしれない。そういうことが出来る作品はやはり名作・佳作といってよいのだろう。

また職業狩猟家のある種のニヒリズムとプロ意識のようなものも面白いが、なんかこんなやつばっかりだったら嫌な世の中だな、と思うヤツである。実際、現代でもこの種の人は多い。

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by Luke Peterson

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