4.修養主義とマッチョイズム/「芸術」が成立したのはいつか/眠りの質が悪い(02/02 08:07)


2月2日(木)晴れ

昨日は夜電話をしてからついソファでうたたねをしてしまい、起きたら1時半。それから布団に入ったがよく眠れないまま4時半くらいになって起きた。このところ本当にまともに寝られてないのだが、まあなんというか色々だな。ただ日中、眠くて困るということはあまりないので質は悪くても寝てはいるんだろうと思う。まあ人生にそういう時期もあるんだろうなという感じ。と書いたりヤンジャンを読み返しているうちに少し眠くなってきた。

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「もっと知りたい ベラスケス」を読んでいたら、ベラスケスはイダルゴ(下級貴族)の出身だとされていたが実際には父親の家系は数代前にポルトガルから移ってきたコンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系だったとか、彼の作品は数が多くなく(120点くらい)ほとんどスペインの宮廷に秘蔵されてあまり知られることなく、1865年にスペインを訪れプラド美術館で彼の作品を「発見」したマネ以降、急に評価されるようになったとか、いろいろと興味深い話があった。この辺りはバッハがメンデルスゾーンによって「再発見」され、1829年に「マタイ受難曲」が再上演されたという話とかと共通するものがある。つまり、19世紀というのは新たに芸術、アートというものが組織され、批評や評論などによって市民社会においてある意味スノッブに、ある意味学問的誠実さによる評価体系が確立されていった時代だったと考えて良いのかなと思った。

批評活動といえばシューマンが有名だが、やはりその活動時期も19世紀前半で、ブラームスを紹介したりするなど美術や音楽がただ「見るもの」「聞くもの」であるだけでなく、どういうものが美しいかという探究の対象になっていった時代なんだろうと思う。バークが「崇高と美の観念の起源」を書いたのが1757年なので、美学的な研究はすでに18世紀に始まってはいるが、フランス革命以後の市民社会の展開によって、こうしたものの位置付けも変化していくことになったのだなと思う。

この辺の、現在イメージされている形での「芸術の成立」というのがどの時代にどういう形で起こったのか、というようなことはちょっと調べてみると面白いかなと思った。

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「修養の日本近代」を読んでいて、新渡戸稲造がエリートの「教養」と大衆の「修養」の両方において大きな存在だったことはよく分かったのだが、逆にいえばエリートにとっても「修養」は必要だと考えられていたし、大衆にとっても「教養」は大事なものだという考えはあった。ただ一方では「反抗・暴力」や「飲む打つ買う」といった「男らしさ」を価値あるものと考える文化も都市に流れ込んだ男性労働者の間に生まれていて、そういうものもまた大衆文化の源流の一つになっていることは確かであり、またそうしたある種の「反知性的」な原理は今でもマッチョイズムを信奉するトランプ主義などに見られるのも確かである。

その辺を二項対立的に捉えたことはあまりなかったが、なるほどとは思ったのでそういう視点も持っていきたいなと思った。

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