3.科学の発展と神の領域(10/17 00:30)


自分が科学について物心がついてから、どの分野も急速に進歩していることは確かなのだけど、物理学や化学についてはあまり感じないのだが、生物学や天文学の進歩は驚異的だと感じている。多分それは、前者が根本的に窮理学であるのに対し、後者が根本的には博物学であるからだろうと思う。

天文学も生物学も根本的には博物学であるから、観測・観察が第一で、その手段が長足の進歩を遂げたことでその分野が大発展しているということが大きい。特に天文学は宇宙空間に観測機械を発出することによって地上からでは感知できない多くのことを知ることができるようになったことは全く画期的なことだと思う。少年の頃に天文学に憧れた身からすると、やっとけばよかったなあと思うがそれも後の祭りなので今は少しでも成果を知ることで楽しみたいと思っている。

また特に生物学に関しては、観察だけでなく理論の発展によって様々な生命現象が科学的なスタイルで記述できるようになって来ていて、遺伝情報や細胞分化、脳などについてはここ数十年で信じられないような発展を遂げている。

しかし基本的に博物学であるということは、帰納的に現象を記述することが第一なわけで、天文学がいくら発展したところで太陽フレアを止めることはできないし、予測も根本的には難しく、対策をとることくらいしかできない。そういう意味では博物学的な分野は地震の予知もできないし、生命を無から作り出すこともできない。

それとは別のことだが、物理学や化学は根本的には窮理学だったったが、技術の発展によってそれを裏付ける分野が付け足され、発展して来ているとは言える。蒸気機関や内燃機関の発展と熱力学は切っても切れないだろうし、電気技術の発展があったから電磁気学が発展したという面は否定できないだろう。また化学の発展は薬学や新素材の開発と切っても切れないわけだし、窮理学だけでなく工学への応用ができるという面では演繹的な部分が強い。

ただ、それだけに物理学は原子核反応という人類を滅ぼしかねない技術を手に入れ、化学もまた人類を死滅させかねない強力な毒物を開発する手段を生み出した。演繹的な科学技術というのは諸刃の剣であることは間違いない。

天文学や地学は今の所、強力な演繹的な手段を手に入れてはいないから太陽系を組織替えするような事業に手を出す神をも恐れぬ所業を行う力はないわけだけど、生物学は生命は作り出せなくてもクローンや幹細胞の技術によって材料さえあれば類似品を作り出すところまで可能になりつつある。フランケンシュタインのような存在も、技術によって作り出すことが可能にならないとは言えないだろう。

そのような神の領域に手を出すことが多くの人間にとって禁忌に感じられるのは、神が作ったこの世界を人間の手で変革することが恐れ多いというだけでなく、人間という存在の不完全さを感じる人にとっては破滅への序章のように感じられるということもあるだろう。

私の場合は、この人間という存在も、生物という存在も、現在ある形のこの世界が、神によって、ないしは自然現象によって滅ぼされるならある意味仕方がないと思うけれども、人間の手によって滅びるのは理不尽な気がする、ということが大きいのだと思う。

ただそれも、人間中心主義的な考えの人の中には、人間は自らの運命を自らの手に握るべきであって、それで滅びるなら仕方がない、という人もいるかもしれない。ただどちらにしろ、現在人間が手にしているプロメテウスの火は世界を焼き尽くしかねないほど大きなものになりつつあることは確かで、それがいつか人類を滅ぼすことになる可能性はゼロではない、ということは理解しておくべきことなのだと思う。
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