4646.「村上春樹は夏目漱石以来もっとも重要な作家」/ファッションリーダーとしてのウィンザー公(04/18 09:25)


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昨日。村上春樹『スプートニクの恋人』読了。なんだかぼおっとしてしまった。なんというか、うまく言えない。ディテールについてはいいたいことは結構あるのだが、とりあえずそういう問題ではない、という感じだ。村上の短編は奇妙な感じというのがあるが、『スプートニクの恋人』はラスト近くを読んでいるとなんだか気が遠くなるような感じがしてきた。いろいろ始末のつかない感情や感覚や思考が出てきてぼおっとしてしまうと言うか。普段は仕舞っていてなるべく外に晒さないようにしている、というよりそういうものが仕舞い込まれていたということさえ忘れていたような感情や感覚や思考が次々に繰り出されると言う感じである。短編でもそういうものを部分的に感じはしたのだが、長編になるとその露出が本格的になり、あとで自我を収拾するのに一日くらいかかる、『スプートニクの恋人』というのはそういうところがある。

『スプートニク』のもとの意味は旅の同伴者だ、という言葉が出てくるが、ロシア語辞典で調べてみるとそういう意味もあるけれども単純に「衛星」と言う意味もある。月は地球のスプートニクなのだ。スプートニク1号とは衛星1号ということで、北朝鮮のミサイルが労働1号だったり中国のロケットが東風1号だったりするよりももっと単純だ。しかし逆に月は地球の同伴者だ、と言われればまことにその通りなので、考えてみれば美しい。

ラストの必然性がもうひとつうまく飲み込めない。狐につままれたような気持ちが残る。一寸時間を置いてから読み直してみて、また考えてみた方がよさそうだ。井伏鱒二『山椒魚』のラストを思い出す。あの有名なラストシーンを、何回目かの全集に所収したとき、井伏は削ってしまった。無いほうが短編として引き締まっているように思える、というのが理由だったようだが、あれは結構衝撃を呼んだ。その反響を井伏は驚いていたようだが、小説がある社会性を持ちえるとその削除加筆も大きな影響を及ぼすと言う典型的な例だ。『スプートニクの恋人』のラストは削られてもそれはそれで成り立つ気がする。どっちがいいのかは、よくわからない、今のところ。

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人と人との距離感を見定めると言うことは難しいが、自分と小説、あるいは自分とさまざまな「もの」の間の距離を感を見定めることもそう簡単ではない。「もの」を使い倒すこと、人の好意に甘えたり親しく付き合ったりすることは距離の近さを意味するが、「もの」を大事にしたり人を敬遠したりすることは距離の遠さを意味する、単純に考えれば。人と人との距離感の見定め方の違いがそれぞれの文化の違いであろうし、たとえば大阪の人は東京の人に比べてその距離が圧倒的に短い。東京人は大阪人の「近さ」に戸惑うし、大阪人は東京人の「よそよそしさ」に腹を立てる。あくまで私の感じに過ぎないが。

村上の作品を読むということは、私にとってはそういう距離感をとるのが難しい作業だ。ある意味非常に近いところにある表現があり、とてつもなく嫌いな表現もあり、何を言っているのかわからない表現もある。ただ、大枠としては現代日本の枠内にあることは確かで、19世紀初頭のロシアとかに比べるとなんとなく知っていることのような気がしてしまい、距離感が分からなくなってしまうのである。気が遠くなるような感じというのはおそらくそういうことなのだと思う。気合を入れなおしながら、もう少し彼の作品を読めばもう少し分かってくることもあるかもしれない。

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そういうことで一寸先のことが分からなくなって途方に暮れ、呻吟していたが、とりあえずカズオ・イシグロを読もうと思い、町に出かける。駅前の本屋で探したが、考えてみれば出版社も知らない。大手町に出て丸の内の丸善の検索機で検索してみたら早川書房のepi文庫と言うのに入っているということが分かった。早川といえばSFとミステリーだと思っていたので一寸意外だが、文庫のコーナーでカズオ・イシグロ/土屋政雄訳『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、2001)を購入。執事の話というのは知っていたが、館の新しい主人がアメリカ人になった、という話だとは知らなかった。苺のケーキが食べたくなったので喫茶店をいくつか探すが見当たらず、東京駅の八重洲口のほうに歩いて、千疋屋の小さなティールームに行き当たり、ショートケーキと紅茶を頼む。小さな店であまり落ち着かないこともあってケーキを食べたらすぐ出た。


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