4645.ハンドバッグを網棚に上げる女性/イシグロ『日の名残り』と「取り返しのつかない人生の失敗」(04/19 10:36)


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昨日帰郷。出かける前は家の中を掃除。朝のうちに畳の部屋を掃き、洗濯したり、炬燵を仕舞ったり、卓袱台を拭いたり。本棚の整理をしようと思うのだが、方針が立たない。どこに何があるか、そこに行けばそれがあると明白なものでないとガラス戸つきの本棚に仕舞いにくいのだが、ガラス戸つきのものが多すぎるし、その収容能力に相当頼っているところがある。本棚に仕舞いきれなくてダンボールに入れてあるものも一〇箱以上あるのだが、その中身ももう忘れてしまったものも多いし、何とか始末をつけなければと思う。いつも整理するときは思うのだが、本棚に収まっていると本というものはあまりたくさんあるように感じないのだが、一度本棚から出して積んでみたりするとその量はうんざりするものになる。何らかの法則をそこに見出そうとするのはほとんど不可能だ。本棚一つか二つの時代にはそれでも本を並べ替えることが楽しかったが、もうあの楽しみの時代は遠いという感じだ。

と、書いてきて思ったが、まずひとつ本当に手にとることに喜びを感じる本ばかりを集めた本棚を作り、その次のクラスのものを次の本棚に…という感じで「楽しい本棚」を作るように心がけてみたらいいのかもしれないと思った。すべてを整理しようとするから気が遠くなってしまうのであって、何か方針を立てて大事なものから整理するというようにすれば少なくとも大事なものはきちんと整理し保管できるだろう。今週は土曜までこちらで用事があるから東京に戻るのは土曜の夕方になるが、そんな感じでやってみようと思う。

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一〇時半過ぎに家を出、図書館に行ってアポリネール(未読)を返却し、地下鉄に乗る。今回鞄の中にあるのはイシグロ『日の名残り』、村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』、タブッキ『逆さまゲーム』、カルヴィーノ『木のぼり男爵』、入れたつもりはなかったがシーシキン『ノモンハンの戦い』、積んであって未読のエリオット『文芸批評論』、安部公房『箱男』である。『箱男』は持ってることも忘れていたが、初版第九刷を古本屋で買ったもの。『砂の女』も実は持っていた。

『紳士の服装』は読了したが、その中で印象的だったのは鞄は犬だ、ということ。つまり、男の鞄というのは外に持ち歩くとき、後生大事に人間の座る座席になど置くべきものではなく、どーんと地面に屹立させるべきものだ、ということ。確かに日本人ほど鞄の類を座席に置いたり膝に抱えたりする種族は少ないのではないかと思う。この本の筆者がヒースロー空港のロビーで椅子にたくさんの旅行鞄を置いて自分たちは立っている日本人たちを見てイギリス人たちが奇異と軽蔑のまなざしで見ていて恥ずかしくなった、といっているが、それはよくわかる気がする。私もそういうものがどうして違和感を覚えるのかとなんとなくは思っていたが、鞄は犬だ、と言われるとなるほどそうだったのか、と思う。もちろん盗難を恐れて、といった理由は考えられるが、荷物を座席においてしまうと人間より荷物を優先した奇妙な倒錯が生じるのだ、ということを理解した。まあ日本は「茶壷に追われてどっぴんしゃん」の国だから、相対的に人間の価値が低く物の価値が高いということもあろう。一種のアニミズムの現われなのかもしれないが、やはり愛犬家の猫っ可愛がりに抱く違和感と同じようなものを「愛鞄家」には感じるということなのだろう。

だから当然、そういう鞄というものは頑丈でなければならないし、タフでなければならない。大地に屹立する強さを持ったものを持ち歩くべきだということになる。でなければハンドバックと同じように、常に身につけているという前提で持ち歩くべきなのだろう。私など、セカンドバッグを持って出かけてもすぐ面倒になって電車の網棚に上げてしまうが、考えてみればハンドバッグを網棚に上げている女性は見たことがない。まあ多分、「有り得ないこと」なのだろう。

人間とものとの関係、というのもいろいろ見直したほうがいいところがあるんだろうな、と思う。鞄もそうだし、本もそうだし、家もそうだ。そういうところに「洗練」というものの存在価値があるのだろうと思う。

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