4616.塩野七生『男の肖像』/同性のために死ぬという行為(06/04 09:05)


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昨日は午後少し疲れが出て寝てしまい、夜になってからいろいろなことをはじめた。気分転換に塩野七生『男の肖像』(1992、文春文庫)を読み返すと、面白いところもあり、少し古くなったなという感のところもあり。

北条時宗を高く評価しているのだけど大河ドラマの主人公にもならないのは残念だ、と書いているのは既にあの和泉元弥主演で実現しているのでちょっと古いのだが、あれはどちらかというと鎌倉における権力闘争が大きく取り上げられていたけれども、世界に売り出すならモンゴルとの係わり合いをもっと出した方がよかっただろうなと思う。考えてみたら鎌倉幕府は東国(つまり大陸から遠い奥地)から全国を支配した最初の政権(まあ正確にいえばニュアンスはいろいろあるにしても)であったわけで、そういう政権のときにモンゴルの侵攻があったというのも歴史の偶然だろうか。もし九州に本拠を置く政権だったら、どんな展開になっていたことか。

信長評のところで面白いのは、以下の部分。

「士は己を知る者のために死す、のだそうである。そして「己を知る者」という表現は、合理的に解釈すると、己の能力を認めてそれを活用してくれる者となってしまう。だが、それだけであろうか。そのような理性的判断によるものだけであろうか。

だけではないと、人はすぐ、カリスマ性うんぬんで片づけてしまうが、カリスマ性とは何であろう。私には、それが、愛情と言い換えてもよい、官能的なまでの感情であるような気がしてならない。ひっきょう、男の集団を動かす原動力は、官能的なまでの、この不合理によるのではないだろうか。これが、女だけの集団が力をもちえない原因につながる。

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