4599.人の心、未開の原生林の『闇の奥』/「知の時代」(06/07 09:12)


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昨日帰郷。出掛けに丸の内丸善で佐藤優『自壊する帝国』(新潮社、2006)を購入。これは佐藤の自伝的な情報関係者としての自己形成を描いたもので、佐藤という非常に興味深いパーソナリティの形成についてや、情報の世界というのがどんなものかということについての貴重な参考資料になりえるものだと思う。それにしても、昭和天皇が崩御されてから雨後の筍のように天皇研究が出て来たし、ソ連崩壊以降そういう研究がどんどん出て来ているわけだが、そういう研究には旬のようなものがあり、まだまだ冷戦時代関係の新事実は(したがって新研究も)どんどん出て来そうで知的好奇心が刺激されることは事実である。ある意味やはり現代はいろいろな意味での「ポスト〜」の時代であるようだ。ルネサンスの後のマニエリズム、バロックの後のロココ(絶対主義の後の啓蒙主義)のように、新しい時代に移ろうとして移りきれない時代は「行動」あるいは「新しい実践」よりも「知」が優位に立つ時代になりやすいが、現代もぎらぎらした高度成長・バブル的経済繁栄の後のある種の「知の時代」なのだと思う。そしてそれは今までの例で言えば、ある事件で、あるいはある時期が来たら唐突に終わる。911や917(金正日による拉致謝罪)が一つの時代の流れを変えるかと思ったが、まだそこまでいってないような気もする。あるいは「知」がかなり勢力を回復してきたというか。

<画像>自壊する帝国

新潮社

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話が相当ずれた。特急は国立・立川間の踏み切りトラブルのために23分ほど遅延。空いている車両の指定を取ったのだが、近辺に子ども連れが多く乗っており、しかもよく騒ぐ子供たちであちゃあと思う。しかし、反対側の窓際に座った子どもはよく奇声は発するのだが愛想がよい女の子で、こっちを見てにこっとしたりするので思わず「今日は」とか返事をしたりしたのだが、不思議なものでその程度でも「関係」が出来ると、その子が叫ぶ声はあまり気にならない。2時間半以上その子に近い席にいたわけだが、いつもならいらいらするところ、ほとんどそういうことはなかった。基本的にはそんなに騒いだわけでもないのだが、お母さんはときどきデッキに連れて行ったりしていたし、やはり大変だなあとは思った。

特急の中では主に『自壊する帝国』を読むつもりだったのだが、読みかけだったコンラッド『闇の奥』にみごとにはまってしまい、一気に読了した。これはすごい面白い作品だった。"Heart of Darkness"という題からおどろおどろしいものを想像し、読めるかどうか不安だったが、そのおどろおどろしい部分はほとんど気にならなかった。

いろいろな理由は考えられるが、一つは中野好夫の訳だったこと。スコット『アイヴァンホー』でかなり長いものを中野訳で読み、中野訳の呼吸のようなものに慣れていた、ということはある気がする。もう一つはコンラッドがフローベールを尊敬していると解説にも書いてあったが、その描写が変に気取らず、かといって無味乾燥でもなく、実に読みやすい(引っかかりがないとか、癖がないという意味で)描写であったということだと思う。まあ今読みかけで止まっている『ボヴァリー夫人』や『感情教育』の延々たる叙述に比べれば、いかに長々としたアフリカ奥地の描写であっても絶対的な量が短いので、ほとんど苦にならなかった。三つ目は、基本的にこういう「ロードムービー」的な描写が好きで、慣れているということ。80年代、芝居をやっているころに「ストーリーの独裁」みたいなものでない作品に演劇でも映画でも多数触れていて、抵抗がなかったことも大きいかもしれない。だんだん「闇の奥」に入っていくという感覚が、実に皮膚感覚的に感じられて、面白かった。「残酷な描写」みたいなものでも、「アンダルシアの犬」であるとか「フリークス」であるとか実験的な時代の映画芸術をそれなりに見ていればまあそんなものか、と思うのではないかという気がする。自分がよく見た監督で言えばアンジェイ・ズラウスキ『狂気の愛』などだが、そういえば彼もコンラッドと同じポーランドの出身だ。

まあ以上は個人的な理由なのだが、つまりはそういう意味での「訓練」を経れば、まあそんなにどうということもない高さの敷居といえるのではないかという気がする。好みに合わない人は全然駄目だろうけど。


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