4597.インテリゲンツィアの危険と限界(06/09 08:01)


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今日は雨。昨日の遅くに降り出し、朝まで断続的に降っている。強いときは家の屋根がうるさいほどの音で降ってきているが、近くのトタン屋根を打つ音が遠くで聞こえてくる程度だ。しかし雨は雨。6月9日だから、そろそろ梅雨の声を聞いてもおかしくない。まともにニュースを見ていないのでどうなっているのかよくわからないが。

昨日はあたらしい創作を書いた時間が長かった。仕事に行く前に駅前の書店に行き、そういえば新しい号が出ているはずだと思って探したらあったので『文學界』(文藝春秋)7月号を買う。「国語再建」が特集で藤原正彦・齋藤孝の対談、荒川洋治や石川九楊が寄稿しているというのはまあいかにもだが、白川静のインタビューが少し楽しみ。小倉紀蔵がエセーを書いているのがへえという感じ。あとはジャン・リュック・ナンシーの「世界化の時代における政治」くらいかな。

<画像>文学界 2006年 07月号 [雑誌]

文藝春秋

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イシグロの『わたしを離さないで』の書評が出ていて「人間という種というアイデンティティーを扱っている」、ということを言っているのだが、うーん、まあ、そうはいえるよなと思いながら自分の読んでいるところと微妙にずれている気もする。なんかそういってしまうとどうしても浅薄な感じになる。しかしこの書評は「扱っている主題の巨大さとそれにみごとに渡り合う構想力と筆力。それでいて読者のそれぞれに考える余地を与えてくれる作品。『わたしを離さないで』は、二十一世紀文学を代表する作品として遠い未来まで語り継がれていくに違いない。」と結ばれており、結局絶賛である。もうちょっと魅力的な誉め方をしてほしい、というのが私の感じた不満なのだが、まあこういう書き方のほうが客観的で冷静だ、と評価されるんだろうなとも思う。まあいいけど。

<画像>わたしを離さないで

早川書房

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佐藤優『自壊する帝国』(新潮社)第6章(全9章)まで読了。ソ連の反体制知識人との知的交流が非常に魅力的に描かれている。こういう交流をできる佐藤という人を羨ましいと思う。ラトビアの人民戦線の仕掛け人とか、無神論者から出発してロシア正教の神父になり、宗教の教義を徹底的に研究した結果イスラム教に改宗してしまった人物とか、ロシアのインテリゲンツィアの知的誠実さというものがひしひしと伝わってきてある種の感動がある。しかし逆にそのように自分の知的結論に従順に行動してしまうところにある種の弱さがあるわけで、彼らはものすごく頭がいい(ある人物は研究書を一日に1000ページ読むという)が、結局ドストエフスキーの時代のインテリゲンツィアのように、民衆からは徹底的に遊離してしまっていることがよくわかるように描かれている。

日本の知識人はもっと大衆的なずるさに満ちていて(彼ら自身が大衆だ、といったほうがいい手合いも幾らでもいる)、そのあたりが噴飯ものではあるのだが、逆にそこに彼らの腰の強さがあるわけでもあり、なかなかそう簡単に絶滅しそうもない。ただそんなことではなかなか本質的な知的エクスタシーは得られないよなと思うだけである。

印象に残ったところをいくつか上げる。

p.39、1987年。ロンドンの亡命チェコ人の古本屋からモスクワ赴任に当たっての注意。
「モスクワにも古本屋はあるんですか。」「たくさんあるよ。ただし古本屋は反体制派とつながっているので、外交官が接触するとリスクがあるかもしれない。」ソ連のような全体主義国家では「古書を持つこと=反体制」なのだ。中国でも清朝の時代に「四庫全書」という巨大な叢書が作られたが、これはここに収められた本だけは研究しても良い、という意味でつまりは言論統制が狙いだったと宮崎市定が書いていたが、まあそんなようなものだ。「これに載っている言葉はボツ」という日本のマスコミの「言葉狩りマニュアル」と本質的に同じ行為である。いや話がずれた。

p.152、ラトビア人民戦線の戦略。

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