4596.固定観念/命を張る人と張らない人/『国家の罠』/全ての人が理解や同情を求めているわけではない(07/18 12:35)


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もちろん一人の人間の中に両者が同居しているということも珍しくない。まあそれがバランスの取れた人間というものだろうと思うが、どっちかに傾いているということが普通ではないかという気がする。自分はやっぱりかなり後者の側の人間なので、その辺世間というものとのずれが発生してしまうのだろうと思う。

世間というものは基本的には前者で、特に現代日本という社会は圧倒的に前者だと思う。戦時中の日本人のうち、多くは後者的な傾向があったと思うのだが、「もう死ななくて良い」ということになって以来、「死のことなど考えるのはばかばかしい」というメンタリティが一般化してしまったのだと思う。全ての人間がいずれ死ぬということを考えるとそれはちょっとどうかと思うのだが、集団的なメンタリティがそちらに暴走してしまったために、現代の日本人は死のことを考えるのが苦手になってしまったのだと思う。靖国神社の問題で世論も政府もダッチロールを起こしていることの根本的な原因も、結局はその辺りにあるのではないかという気がする。

世界においては、少なくともいわゆるエリートのクラスにおいては、国家のために死ななければならないときがある、というのはある種の常識というか心構えのひとつとして要求されることであるように思うが、日本のエリートがみっともない有様を示すことが多いのはそのあたりの心構えがかけているという面もあろう。ちょっとずれるが、倒産した会社の社長が「社員は悪くない」と社員のために泣き、その扱いの善処を求めるというのも日本的には美談だが、自分の部下の中隊の下士官兵まで常に気を配り、こまめに激励してかわいがっていたという「最高の」連隊長といわれた東條英機とあまり変わりがない。東條は連隊長としては最高だったが、総理大臣としては失格だった。なぜ多くの人があれだけ東條を非難するのか私にはよく理解できない。東條のメンタリティというのは基本的にはそれを非難する人々の多くとほとんど変わらないと私は思う。

そのせいか、日本の報道機関というのも国策のために日本が不利になるような無茶なスクープをやらないとか、外交関係が決定的に悪化するような虚報をあえて流すようなことはしないとかいったモラルにかけることが多いと思うし、「全ての男はみんな金と女が好き」という下司な前提でニュースの話を作ることが多いような気がする。ニュースに反映されているのは取材された側ではなく、取材した側の品位の悪さである、という場合が実に多い気がする。

『国家の罠』を読んでいて、私はこういう頭がよくて使命感を持った人間が好きだ、と思った。

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