だからつまり車谷にしても谷崎にしても、死体の腐っていくさまを見る、というのは明らかに妄想なのである。だから「死の豊穣さ」というよりは「詩の豊穣さ」なのである。谷崎は仏教における無常を悟るための行の中でそうした行為を男にさせているのだが、その有様が小倉遊亀の絵とあいまってどうもふくよかなものに見えてくる。こういうところに実は日本文学の財産があるのではないか、という気がしてくる。
文学の力というのはある意味、よく考えて見たら実にアンリアルな状況なり人物なりを、妄想の力でリアルな存在にもってくるところにあるのではないかと思う。「強く思い浮かべる」ことが大事だというようなことを志賀直哉が言っていたが、日本人は日本人が強く思い浮かべられることを思い浮かべて作品を書けば、それが世界性を持つことにつながるのではないかという気がする。それがサブカル的な想像力よりは文学の形を取った方が今のところは世界に受け入れられやすいとも思う。やっぱ日本文学は豊かだ。詰まらんのも多いが。
今日は東京は雨。でも明るい。これからどうなるのか。
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