子供にはエキゾチズム、すなわちサイードの言う「オリエンタリズム」とは無縁だ、と断言するル・クレジオの言葉は印象的だ。そしてそれは正しいように私には思われる。子供は――子供による部分はもちろんあるかもしれないが――自然を文化としてではなく、もっとストレートに受け取る。それを子供の時代に感じるか感じないかということは決定的に重要なことである気がする。「都会的」な作家とそうでない作家がいるとしたら、そういう「自然」が体内にあるか否かという問題である気がする。都会的な作家の書く自然はどこか「オリエンタリズム」がある。が、まあこれは蛇足だろう。
いずれにしろ子供のころ、あるいは大人になってからも、どのような「刻印」がその人間に押されるかというのが決定的に重要なことであって、ある人間は植民地主義者になり、ある人間は植民地主義的なエコロジストになり、またある人間は非都会的作家になり、ある人間は自分が何者かわからないまま彷徨い続ける。植民地化と脱植民地化という過程は、そういう意味では一人の人間にとってはあまりに巨大なサイクルであって、ほとんど善悪を超越しているというのが正直なところだろう。その善悪を超越しているという表現ですべてを済ませてしまっていいかといえばもちろんそうではない部分があるということは私も思うけれども、まず個人にとっての体験の意味の方が、少なくとも文学にとっては、先にあるべきであると思う。
植民地化と脱植民地化というサイクルは、基本的には西欧文明の持つ「過剰な性格」がもたらしたものだろう。だからそれはむしろ文明の原罪というべきで、文明自体の再検討がない限り、違った形でこうした「過剰」の生む害は繰り返し生産されるように思う。重要なのはそれが「過剰である」ということをどのように認識すればよいかということであって、そのためにはおそらく文学というものが、大きな働きをするのだと思うし、そこに多分、ポストコロニアルという理論の存在価値があるのだいう気が私はする。
<画像> | アフリカのひと―父の肖像集英社このアイテムの詳細を見る |
ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ