4589.ヘミングウェイの言葉(07/24 15:58)


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ヘミングウェイについて。うまく書けるかどうか分からないが、書いてみよう。

ヘミングウェイのライフスタイル、あるいはヘミングウェイの登場人物、登場する風景、まあつまりはヘミングウェイの「世界」を「かっこいい」もの、とする価値観はかなり広範に存在するように思う。私などでも、それはもちろん分からなくはない。また場合によってはちょっとそういう価値観を利用させてもらうこともある。応用の利く感覚なので、それなりに使いやすい。

たとえば、私が全巻持っている古谷三敏の『BAR レモン・ハート』などはまさにヘミングウェイの世界のかっこよさと現代日本の価値観をぶつけ合うところに面白さがある。1920年代から40年代にかけてくらいの、アメリカがアメリカらしかった時代の、しかしアメリカの保守的な禁酒法的なセンスや、家庭を最も重視した考えなどとはまた少しずれて、アメリカにいられずパリやキューバやスペインなどで過ごした世界を住処としたようなセンスが彼の世界の魅力だろう。そのあとのチャンドラーなどのハードボイルドの世界の基本を、彼が作ったといってよいのだろうと思う。

ヘミングウェイの次に「世界」を作ったのが、私はジェームズ・ディーンだと思う。ジェームズ・ディーンの「反抗」をひとつの価値とした生き方は、いまだに多くの人の人生観を規定しているように思う。特に日本人が見る文化としてのアメリカは、ヘミングウェイ的なものとジェームズ・ディーン的なものでほとんどが整理できるのではないかという気がする。その後の時代になると、文化というより社会の病理のような感じのほうが強く、それを真似したいという動機が弱くなるような気がする。もちろんそうは思わないという意見もあろうが、これは私がそう感じる、ということだと整理しておいてもいい。

私はどうもヘミングウェイというものが苦手で、きちんと読んだことはないのだが、言葉のセンス、選び方というものは凄いなとは思う。「キリマンジャロの雪」とか、何の変哲もない言葉がこれだけ光るというのは、卓抜した言語感覚というほかない。

今回『ヘミングウェイの言葉』という「名文句」集を読んでみて、このセンスにはやはり脱帽というか、羨望を感じることは否めない。この言葉がどの場面でどのように使われているのかを知るためだけにも、ヘミングウェイを読んでみたいという気持ちにはさせられる。「もし二人が愛し合っていれば、そこにはハッピーエンドなどはない」という『午後の死』の一言は、つい深い共感を覚えてしまう。人間の根本的な孤独というものを、彼はこういう一言にたくまずして表現しているように思う。

これは、この本を読む前に『戦艦大和ノ最期』を読んでいたせいもあるのかもしれないが、「死」というものをどう考えるか、というのは実は人によってずいぶん違うのではないかと思い始めていた。人は死すべきものであり、死ななかった人間はいない。そのことをどう考えるか。

よく作家の中には、人が死ぬということを考えて眠れなくなってしまった、という子供のころの体験を持っている人が多い。野田秀樹もそんなことを書いていた。私は子供のころ、厳格だった祖父が床の間を背にして座っていて、その首がころっと取れたりまた戻ったり、という夢を見たことがある。また同じ夢の中で、床の間の柱に人面疽のようなものが出来て、何か喋っていた。まだ2歳か3歳ころの夢で、何を喋っていたのかは分からないが、そういう死への恐れのような夢を何度か見たことは覚えている。

しかし私の場合、それが人の死を恐れるという方向にはなぜか行かなかった。ある日の夜、私の家に顔を出した若い女性が、その日の深夜に交通事故で亡くなったことがあり、次の日にそれを知らされて、ひどく不思議に思ったことがある。人の生命というのはある一瞬で終わってしまうということがとても不思議なことと感じられたのだが、それと同時にそういうものなんだなあという理解も出来てしまったようで、人は誰でも、いつか、ある一瞬に、突然「生きている」という状態でなくなってしまうものだと、なんだか納得してしまったのである。

もちろん正確に、私が死ぬのは怖くないと思っている、ということではない。人は死ぬものでそれは避けられないのだから仕方がない、というかその事実に抵抗しても仕方がないと思っているだけで、もしそれに抵抗感を感じ始めたらひどく怖くなるだろうということは容易に想像が付く。まあだからその事について感じないようにするというのはひとつの生きる知恵であって、なんか悟ったとかそういうことでは全然ない。


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