4584.アンジェラ・アキ/どこが「ホーム」か/個人の「ホーム」とポストコロニアル(06/13 09:07)


< ページ移動: 1 2 >
同じように、ル・クレジオにとってのホームはやはりナイジェリアの奥地なのだ。しかし、自然はまだ間違いなく存在するが、第二次大戦直後の、まだイギリスの間接統治が残り、部族社会がある程度温存されていた「アフリカ」はその後の独立と凄惨な内戦の中で破壊され、今はもう存在しない。その意味では「ホーム」は既に失われてしまっているのであって、それはアルジェリア出身のフランス知識人や満洲出身の日本の知識人であっても同じような意味合いを持つ。そういう意味ではこれもshaktiさんの言うように、安部公房もポストコロニアル作家であり、新田次郎も、つまり考え方によっては藤原正彦もポストコロニアル作家であるということになる。

<画像>アフリカのひと―父の肖像

集英社

このアイテムの詳細を見る
<画像>祖国とは国語

新潮社

このアイテムの詳細を見る

「どこがホームか」というのは私自身にとっての問題でもあるなと思う。そういう意味では、日本人あるいは世界の人全てにとってポストコロニアル状況は存在するということかもしれない。まあそういってしまえば、ポストコロニアル状況もポスト冷戦・ポスト社会主義・ポストソビエト帝国主義状況も本質的に同じ問題を持つことになるし、アジアではポスト中華帝国主義の時代はまだ訪れていないわけだから、それをじっと息を詰めて待つしかないというところもある。いずれにしても、コロニアリズムの悪を糾弾することを政治的資源として獲得するための理論武装として利用するするだけではこの問題の本質は明らかになりはしない。そんな単純なものではない。だからポスコロなどと幾分馬鹿にした言い方をされるのである。

ポストコロニアルの議論が実り豊かなものになるためには、「コロニアリズムの善悪」を一度括弧に入れて議論を広げなければ人類史的な意味は持ちえないと思う。その俯瞰を持った上で善悪を論じたければ論じればよいのだと思う。

と、ここでいったん話を終わる。続きは下に。

ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ


< ページ移動: 1 2 >
4584/5071

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21