昨日帰郷。行きがけに図書館によってナイポールを借りようと思っていたのだが、友人から電話がかかってきて話し込み、とりあえず読むものをと思ってサイード『オリエンタリズム』上(平凡社ライブラリー、1993)とシュリンク『朗読者』(新潮文庫、2003)をもって出かける。東京は曇っていた。
『オリエンタリズム』は線をひいたりノートに整理したりしながら読まないと上手く読めないなと思いながら読む。まだ序説を読んでいる途中なのだが、留意事項として挙げられている?T西欧に現れる「オリエント」はつくられた(架空の)概念ではないこと、?U西欧と「オリエント」の関係は文化的ヘゲモニー(主導権)関係にあるということ、?V「オリエント」は虚偽と神話ではないこと、が上げられている。このあたりの概念操作になるとこういうものの考え方に慣れていないと何を言っているのかよく分からなくなるが、このあたりですでにサイードの主張が単純なポリティカルコレクトネスの主張ではないことは現れているように思う。初めて読んだときはポリティカルコレクトネスなんだろうと思いながら読み始めたので、このあたりでいったい何を言っているんだか全然分からなくなったのだ、ということが理解された。
まだ全然読み進めていないのできちんと言うことは出来ないけれども、サイードには文学評論にヘゲモニーという権力論的な、つまり政治学的な概念を持ち込んだということの功罪はあるといって言いのだろうなと思った。また、歴史をやったものから見ると一つ一つのケースの評価がちょっと乱暴で、議論が粗雑、つまり細部を捨象しすぎているという印象を受けた。しかしこれは大概の社会学系の学者にはありがちなことなので、まあそういうやり方だから仕方ないんだろうな、しかしだから魅力がないんだよな、と思いながら読んだ。
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で、わりあいすぐに読み進めるのを断念し(何しろ昨日はワールドカップの敗戦ショックであまり寝ておらず、面倒な議論を電車の中で整理して読めるほど頭がクリアではなかった)、『朗読者』を読み始める。電車の中で半分ほど読み、後は寝る前に最後まで読了した。電車の中で読んでいるときにはハンナという女性がリリアナ・カバーニの『愛の嵐』に出てくる女性、シャーロット・ランプリングの演じた女性のような印象が残る。まあそれは性描写がなんとなく共通点が感じられただけで、考えてみたら『愛の嵐』は収容される側のユダヤ人で、ハンナは看守だったわけだからポリティカルコレクトネス的にはそれを同じ印象で見ていたら怒られるようなことなのかもしれないと考えてみて思った。まあナチスとセックスという二つのキーワードで思いつくのがその二つだと言うことでちょっと単純すぎる気もしなくはないが。
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