同じページで、「彼ら自身が自らの関心の中で何をもって最善と見なしているかを考慮すること」が重要だと言う主張は、「統治の技術」の核心をついている。人間はたいていの場合、それが考慮されていると感じれば大概の支配は受け入れるからである。このあたりを読んでいると、イギリスの植民地からの撤退が比較的スムーズに行き(インド・マレーシア・エジプトなど)、フランスが泥沼に落ち込んだ(アルジェリア・ヴェトナムなど)ことが思い出され、イギリスが上手くやった理由がわかる。「自らの関心の中で何を持って最善と見なしているか」という関心の中心が植民地人自身のアイデンティティ、すなわち自信や誇りや独立心というものになったときには躊躇なくさっさと統治を切り上げるべきだ、という考えにもつながるわけで、その鮮やかさがフランスにはない。
p.96東洋人には論理が欠けている、という嘲笑は、会田雄次『アーロン収容所』にでてくる病原菌ガニのエピソードを思い起こさせる。ビルマで日本兵を捕虜にしたイギリス軍は捕虜を川の中州に閉じ込め食糧を与えず、日本兵は病原菌を持っていると知りつつカニを食べざるを得なくなり、それで病気にかかると「日本人は衛生観念が不足しているため」と報告書に書いた、という話である。
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p.100ページあたりを読んでいて思うのは、西欧人がオリエントを「矯正すべき対象」と考えていると言うことで、これはただちに日本の「進歩的文化人」「左翼的文化人」ないし「親米文化人」が日本の文化のあらゆる個所を「矯正の対象」とみなし、注文をつけているさまを思い起こさせる。西欧人の思想がそのまま自己投影している日本の文化人のあり方こそ、植民地根性と言うべきだろう。
まあこのあたりを読んでいると、サイードがもし日本論をやっていたらどんな風になったのだろうという気もする。近視眼的な論者は帝国化したあとの日本が西欧と同様にふるまったという一面しか見ない。あるいはオリエントを脱し、帝国化すること自体を悪と見なすだけだが、「あなたなら、どうしましたか」という『朗読者』のハンナの問いに答え得る人がいないように、そこを考えないようにしているのでは知的誠実さに欠ける。
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