3369.『日出処の天子』:生きている気がするように生きること(07/02 15:52)


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話が違う方に行ったが、『日出処の天子』は映画を本歌とするセンスが色濃く残っている。少女マンガ的な手法が駆使されているので(たとえば何かを言われてはっとしたときに目の描写が細く繊細に、一目見た印象が白っぽくなり、額に縦線が入るなど)そちらの方に目が行ってしまうが、今のマンガに比べるとコマ割もシンプルだし大ゴマも少ないしイメージカットが少ない。つまり、無駄が少なく密度が濃い。もちろんイメージカットは一概に無駄といえるわけではないが、ストーリー展開を遅らせるものであることは確かだ。最近のマンガはすぐ何十巻という超大作になってしまうが、『日出処の天子』はこれだけの内容でありながら文庫本にして7巻だ。絵画やイラストレーションならばイメージカットがいくら多くてもおかしくないが、映画であればそればかりでは観客はひきつけられまい。そういう意味でその頃に比べて漫画というものが質が違ってきていることは確かだと思う。

テーマ的な問題で言えば、王子が女性を愛せず、男を愛するという設定は竹宮恵子の『風と木の詩』と同様の少年同性愛作品の濫觴といえるだろうけれども、当時はそうでなければいけない理由がかなりしつこく求められた時代だったから、その分そのあたりに対する説明も深いものになり、また描写はシンプルになっている。現代のBLはその抵抗が消えているのでお約束の世界になり、お手軽なものになっているが、同好の士のお楽しみという次元ですべての人を巻き込む力はない。それは妹との愛、インセスト・タブーにしても相当手の込んだ仕掛けをしているわけで、「妹萌え」が一つのジャンルになりおおせている現代とは違う。もちろん現代はそれだけ多様化の時代だといえばそれまでだが、やはりそれをお約束としてしまえばすべての人を巻き込む力は消えてしまう。「日出処の天子」は明らかに、誰が読んでも面白い、人によっては刺激の強すぎるものになっているが、それは「お約束」に流れている部分がストイックに最小限に抑えられていて、基本的に「その趣味の人」でなく「常識人」が読むものとちゃんと設定されているからだ。

現代のマンガ、いやマンガだけでなく多くのアート作品が弱いのはそこだろう。確かに隙間マーケットは昔と比べればはるかに大きく、それにアクセスする手段も比べ物にならないほど多い。まさに「ロングテール」の時代であり、そのことの意味は決して軽んじられるべきではないが、「常識人」に訴えかける力を持った作品がなかなかでて来なくなっている。

それは一つには、「多数派集団としての常識人」というものが崩れつつあるということと無縁ではない。テレビでもお化け的な視聴率を誇るような番組がなかなか出てこないということと無関係ではないだろう。それは、世代によって、「常識」の基準が変わってきているということもあるし、専門性や階級による「常識」の差も昔に比べて広がってきているということもある。「常識」が曖昧になってきているからそれにターゲットを絞りにくくなり、また絞ることの意味も薄れてきた、ということではあるだろう。

しかしそれだけ、フィクションがある一定の方向に社会を動かす可能性というものがあまり多くなくなってきたということでもある。「日出処の天子」を読んでみて思ったが、この作品は明らかにある方向に社会を動かしている。少年同性愛や妹萌えが(表現の世界でだが)市民権を得る方向に動かしたり、聖徳太子像の再検証もかなりインスパイヤしているように思う。「聖徳太子」でなく「厩戸皇子」という形で教科書に載せられるようになるなど80年代には考えられなかった。しかし、いまのBLや妹萌えの作品が、世代を超えて社会に広く影響を及ぼすとは考えにくい。ゲイや同性愛のカミングアウトが増え、またそれだけにそれに対する社会の許容性も上がっているとは思うが、そうした作品はまだまだ感覚的・欲望充足的な次元に留まっているように観察されるし人間的・精神的な深みに達したといえるものは少なくとも私は知らない。

そういう世界に留まらず、マンガ界全体を見てそういう方向の可能性を持った作家がいないわけではないと思う(『ランドリオール』には期待している)。

そういうものが出てこないのは商業マンガの構造的な問題なのか、それとももっと魂のレベルの問題なのか。『日出処の天子』の読後感が素晴らしいのは、毛人を失った厩戸王子がある意味さらに奇怪に変容しながら、それでもなお生への意志を全うしようとするところにある。「私はこの国を自分の思い通りに動かしてみせる。別に志があってのことではない…何か、何かしていないと…生きている気が…しないから。」これは、つまり実存主義だ。生への衝動だ。人は生きようと思うから生きるのだ。「面白きこともなき世を面白く」、だ。「住みなすものは心なりけり」などという道学的なことではなく、「させて見せるが心なりけり」という心意気である。未来に開かれたオープンエンドであるが、我々はすでに聖徳太子の推古朝の華やかな時代を知っている。希望に満ちたエンディングである。


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