3369.『日出処の天子』:生きている気がするように生きること(07/02 15:52)


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昨夜はずいぶん強い雨が降ったのだが、今朝は上がっている。でも、まだ曇ったままで、気温も上がっていない。もう7月だ。家の周りの草もだいぶ生えていて、少し刈らないといけないなと思っているのだが、なかなか時間がない。

今朝は5時に目がさめて、職場に置いてきたPCを取りに行き、帰りにモーニングを買ってきた。まずは今週のモーニングの感想から。

「社長島耕作」「道を踏み外した」八木取締役を巡って。自分を信頼してくれる人が回りにいない、「そういう人間はたぶん八木君だけじゃない。全国の至るところに同じようなサラリーマンがたくさんいると思う」。「OL進化論」ビューティー定食(笑)。「ビリーバット」急に紀元30年ごろのイェルサレムに。どういう展開だ?「ジャイアントキリング」ショートコーナーだったからオフサイドはないと思っていたのに。椿のドリブルによる突破はマラドーナを思わせる強さが出てきた。「エンゼルバンク」ベンチャーの社長。「チェーザレ」ウゴリーノの孫のグエルフィが出てきた。「神曲」に出てくるウゴリーノのエピソードとハインリヒ7世が関係あるとは。そこにダンテがこのエピソードを書いた意味があるという解釈。なるほど。ダンテ研究でそういう解釈が実際にあるのかどうかは知らないが、いずれにしてもよく勉強しているなあと思う。「とりぱん」辛さは味覚でなく痛覚で感じる。へええ。「N'sあおい」キャスター福光とその父脳外科医福光の過去のエピソード。過去のトラウマを武器に人を切るための権力を手に入れる。その悲しさと醜さ。そういうことをしなくてよかったと思う。「僕の小規模な生活」夫婦喧嘩。犬も食わんな。(笑)でもそれがネタになる作家。「クッキングパパ」夏の冷房の冷えの話。男は大丈夫だが女は、という話になっているが、私も冷房は苦手なのでちょっとそれは一面的だなあと思った。今週はなんとなく物足りないなあと思っていたのだが、最後に「誰も寝てはならぬ」がちゃんと掲載されていたので少しはおさまる。しかし猫カフェの女。まあこういうことだろうけど。(笑)「東京怪童」と「特上カバチ!」が休載。

<画像>日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)
山岸 凉子
白泉社

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山岸涼子『日出処の天子』。考えてみると、いや考えれば考えるほど、「日出処の天子」という言葉は素晴らしい言葉だ。誇り高い。昇りつつある太陽と、いかなる大国に対しても独立対等の気概。わが国のナショナリズムの濫觴と言っていい。この言葉は7世紀初頭の、つまり1400年前の言葉でありながら、今でも私たちの胸を高ぶらせるものがある。この言葉を書いたのが聖徳太子であるのかどうか、それは確証はないけれども、そういう言葉を書く人間と気概が当時の日本列島の政権にあったということは確かだ。それは隋書に出てくる言葉であるだけに余計に価値がある。隋書もよくこうした記録を載せてくれたものだと思う。

この作品は1980年からの連載だった。現在のマンガと比べてみて感じることはいくつかある。モーニングの作品もそうだが、最近の面白いマンガはイラストレーションとして優れていると感じるものが多い。「日出処の天子」はもちろん各コマの描写は優れているけれども、イラストレーションという感じがしない。

むしろ、手塚治虫以来のマンガの伝統、つまり「映画的な手法」の方が目につく。マンガは絵画に憧れて始まったものではなく、映画に憧れて、少なくとも手塚とその影響下にあった人たちにとっては映画が本道・本歌のような存在だった。イラストレーションとしての性格が強くプッシュされたものは石森章太郎の『ジュン』などがある。考えてみると確かに石森はマンガに絵画的な性格を強く模索している面があった。「…」が多用されるのも彼に始まっているように思う。手塚のコマにはもっと緊張感があった。石森は内面を暗示的に描こうとしたり、象徴表現を使ったり、映画的な手法ももちろん使っているけれども、各コマの流れ方が手塚に比べるとずっと遅い。


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