3360.読売新聞の村上春樹インタビュー:『1Q84』をめぐって(06/17 10:33)


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まず問題にしているのは「倫理」で、「絶対的な正しさ」のない現代にあって白黒は入れ替わり得るというか、「正しいと思ってやっていたことがいつのまにか重い罪になってしまう」ということに触れている。これは先に述べた林泰男の例そのものだろう。「罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。」と。作中で「リーダー」は幼い娘たちと交わったということで殺害さえされるが、同じ方向の行為を主人公である天吾もしている。このあたりのところは読んだときはあまり重大に考えなかったが、村上がそういうならばこのあたりに何か意味があるのかもしれないとも思う。

「自分のいる世界が本当の現実世界なのか」というテーマ、総合小説への志向などは「モンキービジネス」で語ったことと同じで、「モンキービジネス」の中に書かれていることの方がより詳しい。

ユートピア志向に関する保留状態、ということについてはこのように述べている。「僕らの世代は結局、マルキシズムという対抗価値が生命力を失った地点から新たな物語を起こしていかなくてはならなかった。何がマルキシズムに変わる座標軸として有効か。模索する中でカルト宗教やニューエイジ的なものへの関心も高まった。「リトル・ピープル」はその一つの結果でもある。……(リトル・ピープルは)神話的なアイコンとして昔からあるけれど、言語化できない。非リアルな存在としてとらえることも可能かもしれない。神話というのは歴史、あるいは人々の集合的な記憶に組み込まれていて、ある状況の中で突然、力を発揮し始める。たとえば鳥インフルエンザのような、特殊な状況下で起動する、目に見えないファクターでもある。あるいはそれは単純にわれわれ自身の中の何かかもしれない。」と。

この発言は単純に読み解くことは難しい。マルキシズムはまず「対抗価値」として、また「座標軸」としてとらえられ、それに代わるべきものが何か、という方向で考えられている。もちろんマルキストにとってマルキシズムは「対抗価値」などではなく、「理想」であり「実現されるべき真理」であったはずだ。だからこれは村上のマルキシズムに対するポジションを明確に示している。彼にとって現代社会のメインストリームたる価値観、もちろんそれは資本主義的・自由主義的な価値観に対抗すべきものであり、それ以上でもそれ以下でもない。村上において、その「理想」の中に飛び込んでいく、ということはほとんど考えられないことだっただろう。そこのいわば「醒めたポジション」が村上の魅力の源泉であり、また村上嫌いを生む大きな理由だと思う。村上自身の言葉でいえば「デタッチメント」だ。メインストリームの価値にも対抗価値にも積極的には関わらない。それが我々の世代、いわゆる「しらけ世代」とか「三無世代」と言われるような世代の社会へのかかわりかたと共鳴するところが非常にあったのだと思う。

しかし、マルキシズムは不必要であった、と切り捨ててもいない。そこは明らかに資本主義・自由主義を永遠の基盤として「歴史の終わり」を生きようとする立場とは明らかに異なる。マルキシズムにコミットする気はさらさらないが、「座標軸」としての価値は認める。すなわち、現代の社会、普通に生きる現代の人間を映す鏡として、座標軸との距離を測ることでそれらのものが忽然と立ち上がってくるような存在としての有効性は認めている。『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』に見られるような「戦前の日本」への批判の道具として、マルキシズムとそれから派生した価値観を使っている。だから私は「村上は基本的に左翼だ」と思っていたのだが、もちろんそれは我々の世代に立ち上がった新たな保守的な価値観から見てそうなのであって、村上の世代の基準から言えばとても左翼と言えるような代物ではないだろう。

しかしそうしたマルキシズムの座標軸としての有効性も衰えていることを村上は自覚しているわけで、その中でそれに代わりえるものとしてカルトやニューエイジ的なものも参考にしようとも考えてみたということなのだろう。もちろんそれは座標軸としてであって、村上としてはマルキシズムに対してと同様、コミットしようと言う気はないだろう。


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