3359.読売新聞の村上春樹インタビュー(下)/橋本治『大不況には本を読む』(06/18 11:54)


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物語観も成長している。ウィトゲンシュタインの「言語とは、誰が読んでも論理的でコミュニケート可能な客観的言語と、言語で説明のつかない私的言語とによって成立している」という定義を引用し、「私的言語の領域に両足をつけ、そこからメッセージを取り出し、物語にしていく」のが小説だと考えてきたが、あるとき「私的言語を客観的言語と上手く交流させることで、小説の言葉はより強い力を餅、物語は立体的になると気がついた」という。

その変化はやはり、『アンダーグラウンド』の頃に、つまり阪神大震災・オウム真理教事件と続いたあの真の意味での世紀末の時期、1995年からの数年でそうした変化があったのだと思う。私自身もそうだが、あれらの事件は日本人のありようをどこか変えてしまったところがある。911がアメリカ人のありようを変えてしまったように。「どんなことでも起こりえる」と思ったとき、つまり客観世界が案外もろいものであるということに気づいたとき、人は私的言語に閉じこもって客観世界に打って出る、という従来の戦略ではやっていけない、言葉を替えて言えば、「終わりなき日常」なんてない、日常はいつ崩れ去るかわからないものであり、むしろ主観は客観と共同しつつ何かもっと大きな(恐ろしい?)ものに対抗していかなければならない、という風に発展していったのではないかと思う。私は基本的に村上の作品は『ねじまき鳥クロニクル』以降のものしか読んでいないから、『ねじまき鳥クロニクル』が一つの出発点のように感じる(ゴールでありスタートであるのだろう)のだが、それ以降でも村上の文体は相当変わってきている。特に今回の、特にBOOK1はそうだ。

その変化はやはり、若者のありようというものにも大きな影響を及ぼしているのだろう。若者の考え方、行動がある意味妄想的、幻想的になってきているのは、やはり日常というもののもつ重みが我々の世代とはもうだいぶ変わってきているからだろうと思う。我々自身がその変化に戸惑う部分が大きいのだけれど、こうした幻想化した社会の中では、特に客観情勢、世界情勢を常に認識して自分の位置を確かめておかないと、より狭い範囲の中での感じ方だけでは危ない感じがする。昔は日本人は日常と常識の中で生きていたからそれがいちばん確固とした基盤で、それが鬱陶しいからそれから逃れたがっていたのが、むしろその日常と常識さえ現実感を欠いたものになりつつあるというところが、今の日本のいちばんの問題なんだろうと思う。

そのあとは文体論ではなく社会観になっている。コンピューターの発展による新たな階級社会。プログラマーという大勢の知的労働者の存在。コアな知的仕事をする人が5%はいて、芸術は滅びることはないという信念。アメリカ文化の凋落と「文化的なやり取りはいっそう盛んになるし、より等価的になる」という見通し。日本という場所に住む人たち(日本人ではなく)がどう生きていくのがいちばんいいだろうという問い。日本語の新しい可能性。日本から発信できるメッセージが必ずあるというこれもまた信念。このあたりはよく読む海外での村上インタビューにかかれていることに似ている。こういう部分は全然変わらないなあと思う、良くも悪くも。小説という特異な物を作り出す村上と、こうしたいわば平凡で常識的な進歩史観を語る素顔の村上のギャップのどこかに、創造の秘密が隠されているんだろうなあと思った。

インタビューした尾崎真理子記者がオウム真理教事件の林泰男死刑囚の法廷で事件の詳細を見届けた上で、死刑囚の心境を想像し続けたことについて、「作家が自ら歩み出て引き受けたその苦役が、この美しい、長い物語に結晶した――そう考えると、あらためて「小説」の不思議さを思う」と書いている。書く人間と物語とはやはり別のところにあるわけで、人間が物語に近づいていくためには苦役にも似た想像力の行使がある、ということが創造の秘密の第一で、しかしそのためには普通の意味での努力も必要であり、そのことを「この作品の軽やかで多彩な面白さがいかに自然に湧いてきたか。的確な文章にするため、表現の技術をどんなふうに鍛えたか。30年を振り返って語る表情は充実していた」とまとめている。さすが大・読売新聞のベテラン文芸部記者。読みたいことを過不足なく取り出している。ネットや新興雑誌のインタビュー記事とはやっぱり違うんだなと思わされた。新聞というものも、文学というものも、まだまだ大した力を持っているのだと思う。

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