3355.勝間和代『断る力』/『カフェに教わるおいしいご飯』(06/22 11:30)


< ページ移動: 1 2 >
<画像>断る力 (文春新書)
勝間 和代
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る

勝間和代『断る力』(文春新書、2009)読了。面白かったが読むのは疲れた。自分にとって、第3章の交渉力の話や、第4章の人間関係の向上に関しては、そんなに新しいことはなかったと言うか、大体普通にやっていることが多かった気がする。まあそういう意味では、ああそれでよかったんだなと思うことが多い。というか、この本の自分にとっての効用は、主に自分のやっていることがこれでよかった、これしかなかった、と感じる部分が多かった、ということだ。私も世間が狭いので、自分のやっていることに迷うことが多いのだが、「それでいいのだ」と思えることは結構大事なことで、そういう意味でとてもありがたい本だったと言える。

第1章、第2章に関しては目新しいことが多く、とはいっても全く目新しいわけではなくいくら試行錯誤を重ねてもなかなか結論に至らない種類のことだ。特に第2章の、「自己評価に始まって自己評価に終わる」という言葉は全くその通りだと思いながら、自分がいかにそういうことが不十分かということを徹底的に自覚させられた感じで、かなり凹むものがあった。しかし逆に、自分の特殊性がむしろそこにあると言うことがわかったというプラスもある。

「少なくとも日本において、男性は、比較的、自分を「客観視」するトレーニングを受けています。なぜなら、生まれたときから男性は将来、競争社会に放り込まれると言うことが前提なので、親の育て方においても、学校内のカリキュラムにおいても、社会で自分が存在できるポジションを確保して生き残るための教育を知らず知らずのうちに受けているのです。」

もちろんそういう面がないことはないが、競争社会とかそういうことは子供のころほとんど意識したことがないし、「社会で自分が存在できるポジションを確保して生き残るための教育」も意識したことはほとんどない。このことはむしろ大人になってまごついたことであって、大学4年くらいになっても就職ということの意味が全然理解できてなかった。

まあそれからそれで苦労したと言う面もある。そのことは多分今でもどのくらいわかっているのか怪しいものでもあるのだが、とりあえずは生き残れてはいる。しかしそういう特殊性を自覚してみるとむしろ、こういういい加減な人間になれたのはむしろそのおかげだというふうにも思う。周りにとってはどうだかわからないが、自分にとってはこういういい加減な生き方のほうが自分にあってたということは間違いないし、もっと違う生き方をしていたら今頃どうなっていたのか、恐ろしくもある。

自分が「いい加減な人間」だ、ということを自覚したことがむしろ、自分の中に「自分自身の揺るぎない評価軸」の形成を可能にする。自分にとって今まで一番大きな罠は「責任感」の問題だ、ということに気づいたのだ。責任を果たすことと責任感を持つことと、それが一致していればいいのだが、責任ということはいつどういう形で発生するか予測できないところがあり、それはその事態が起こったときに自分のポジションでやるべきこと、出来ることを最大限やるしかない。逆に言えば責任感というのはその程度でいいのであって、できないことにまで責任を感じても自分を縛るだけで自分にとっても有害だし、自分のパフォーマンスを十分に発揮できなくなることで周りの人にとっても有害になる。「責任から逃げるな、責任感に縛られるな」というのがこの問題のもっとも重要なところなのだと思う。問題はどんな事態が起こっても逃げないで対処する、ということだけなのであって、先回りして起こりそうな事態を予測してその重さで身動きが取れなくなることではない。予測できないこともまで予測して防ごうとするからいけないのだと思う。

この本、「断る力」というものに関してだけならあまり意味がなかったと思わないでもない。もともと、世間で評判の勝間和代という人がどういう人なのか一度読んでみようと思って読んだものなので、私自身が本の書かれた対象(30代らしい)にジャストフィットしているわけではない。


< ページ移動: 1 2 >
3355/5053

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21