3338.磯崎憲一郎『終の住処』読了。これははじめてわれわれの世代の感覚を描いた作品ではないか。面白さのあまりつい選考委員の論評までしてしまった。(08/12 10:08)


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しかし彼の書きたいのはそういう点ではなく、人生は一個の愛すべき笑劇だ、ということなのだと思う。この書き方には目を開かされる思いがする。基本的にはポジティブなのだ。われわれの世代が人生を前向きに捕らえようとした成功例だと思う。しかし、人生をもっと起伏に富んだわけのわからない面白いものとしてとらえている人、たとえば石原慎太郎などにとってはあまり面白くはないだろうな、とは思った。大体この作品の選評は、選考委員の人生観が反映されているように感じられた。

こういう作品を読むと、つまり自分が本当にいろいろな部分で共感できる作品に会うと、というか、感動というよりもこれだけ共感した作品は初めてだと思うのだけど、選考委員の選評を論評したくなる。

山田詠美。少し上の世代。彼女の人生観とは全然違うのははっきりしているが、「過去が主人公を終の住処に追い詰めていく」という感覚が面白いと思った。書き手はもっとそのことをポジティブに捕らえていて、でも山田のようにこのことをとらえる人がいることを踏まえた上で、そう言うホラーのような書き方もしてみているのだろう。そういう意味ではそういう人をからかう軽い冗談のようなものなのかもしれない、このちょっとホラー的なテンションは。

小川洋子。全く同世代、でも女性だからちょっと感覚は違うだろうが、「人間の人格など何の役にも立たない」という感覚の指摘は正しいかもしれない。人格の力で何かがどうにかなる、というようなことをわれわれの世代で本気で考えていた人がどのくらいいるか。ただそれでも、最後の社運を賭けた交渉はある意味人格の力で勝利しているのだが、しかし帰って来てみたら娘はいない、みたいな「うまく行かなさ」が面白い。たぶんこの人、もっといろいろなことを感じているのだろうけど、まだ言葉にするのに時間がかかるという感じではないかと思った。

石原慎太郎。未知の戦慄を与えてくれるものがない、と吠えている。相変わらずだ。「結婚という虚構の空しさとアンニュイを書いている」って、それしか読めないんだったらつまらなかっただろうなこの小説を読んでも。

黒井千次。「固くごつごつした物体を積み上げることによって出現した、構築物の如き小説」で、「自分には知らされていないものを探り、手の届かぬものに向けて懸命に手を伸ばしながら時間の層を登って行く主人公の姿が、黒い影を曳いて目に残る」という。うーん。たぶん自分にひきつけて読んでいるんだろうな。この小説の日常の違和感というのは虚構の積み上げによって成立させた虚構の世界なのではなく、本当の日常存在そのものに感じるものをわりと丁寧に描写することによって成立したもっとソフトな世界なんだと思う。作者は車を買う前にドイツ製の100万円のシングルスカルを買ってしまうような人なのだ。

高樹のぶ子。「何十年もの歳月を短篇に押し込み、そのほとんどを説明や記述で書いた。アジアの小説によく見られる傾向だ。日本の短篇はもっと進化しているはず。」という。「小説が書かれる目的は「人間に触れる」ことだと思う。」という高樹の小説観と、この小説は相容れない。それじゃあ小林恭二の「小説伝」や「ゼウスガーデン衰亡史」は全然網にひっかからない。でも小林恭二が落選した当時から、「終の住処」が受賞した今年までの間に、小説を取り巻く状況は確実に変化しているんだろうと思う。「主人公がどんな男かが読後の印象として薄い」と言われても、そういうものを書きたくて書いてる、あるいは読みたくて読んでるんじゃないのに、という気がする。こういうのもありだというのを認めないと話にならない。でもそういう人が選考委員にいるのは、悪いことではないかもしれない。前回の『ポトスライムの舟』はみんな一様に誉めすぎだった。悪いことじゃないけど、際立った新しさがあったわけではないということの証明でもある。

川上弘美。「リアルなことを書いているように見えて、実は魚眼レンズや薄膜や顕微鏡のレンズを通して見ているかのように、文章中に現れるもののほとんどが歪んでいる」という指摘は面白いし、記憶というものの本質をよく言い表しているように思う。たいてい、自分の覚えている記憶というものを正直に話すと、実は結構グロテスクな、いろいろな部分で自分に都合よく(自分を責めるのに都合よく、という場合も含む)改変されていることが多かったりする。この小説の主人公の行動や言動や思考が奇怪だったりするのは、その記憶そのものが持つ性質をあらわしているのではないかと思う。物語を作らず、物語を読みたい人に肩透かしを食らわせているこの作品のとぼけた味わいを、川上は上手く捕らえているが、「「物語」を作り上げるという利便に与しないこの作者が書いた「物語」を、いつか読んでみたいものだと思いました」というのは、「よくわかっているくせに意地悪なことをいうお姉さん」みたいな感じがして味わい深い。この作品と一番面白く戯れたのは彼女なんだろう。


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