3338.磯崎憲一郎『終の住処』読了。これははじめてわれわれの世代の感覚を描いた作品ではないか。面白さのあまりつい選考委員の論評までしてしまった。(08/12 10:08)


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子どもの世話に疲れた場面からいきなりプラザ合意の話が始まるそのいきなりさ。このあたりのいきなり感覚というのも同世代の笑いの感覚で、そう言う感覚がこの小説には随所にある。「結婚して、新居を構えてからの六年間というもの毎日、妻は遠くにこの観覧車が見えることだけを支えに生活してきた、いつも妻が見ていた遠くの一点とは、まさしくこの観覧車に他ならないのではないか!」という妄想がおかしすぎる。考えあぐねているうちにあらぬところに変な答えらしきものを見つけてしまうあの感覚。その突拍子もない考えに一瞬取り付かれてしまうが、よく考えてみるとそんなことは全然ない。そういうことが私にもしょっちゅうあったので、この妄想の突飛さは本当におかしい。「次に妻が彼と話したのは、それから十一年後だった。」というくだりは作者の友人に実際に起こったことらしいのだが、しかしこの極端さが、小説というものが表現しうるわれわれの世代のおかしさの感覚なんだと思った。

観覧車に妻の秘密があるという考えに取り付かれた彼は観覧車の歴史を調べる。こういうずれたことをしてしまう中年男の悲しみというかおかしみは、何と言うか私自身のずれ具合に似ている。そういうことがどうして起こるのかというと、仕事とか職場とかに適応してしまうことで、世の中の「本当の流れ」から置いていかれる、疎外されてしまうということが往々にして起こるということではないかと思った。今のりピー騒動とかが起こって思うのは、私は酒井法子という人をほとんど知らない、ということで、ちょうど芝居に没頭し、また就職してからは仕事が大変で忙しかったあの頃、そう言うものに全然関心がもてなくて、今そういうものを見せられても全然実感がわかない、ということだ。世の中のおじさんが世の中のことにずれているのは世の中でなく自分の仕事に没頭していたからなんだということがよくわかる。

一方で観覧車の歴史の話は面白く、若い頃は自分にとって価値のあることがすごくはっきりしていたなあとしみじみ思った。こういう面白さは自分にとってすごく価値のあることだった。村上龍はたぶんこういう部分を批判している。というか村上はこういうのが嫌いなんだな。「受賞作となった『終の住処』には感情移入できなかった。現代を知的に象徴しているように見えるが、作者の意図や計算が透けて見えて、私はいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった、今となってはジョークとしか思えない死語である。」という言い方をしているが、村上龍もここまで言うと返って滑稽な感じがする。私は作者の意図はそういうところにはないと思う。むしろそれは意匠に過ぎない。それもこだわりのある意匠ではないだろう。もっと生理的に、自分に染み付いたものを書いているに過ぎないのではないかと思う。村上はそれを剥ぎ取りたいと思っている、というか村上自身にもそういうペダンチックとかハイブロウとかいった免があるからこそそういうことを言ってるんだなとも思うし、なんだか大人のいうことじゃないなという気もする。

そして主人公は唐突に家を建てることを決心し、妻と娘に宣言する。ここで彼の「日常」は唐突に終わり、ここから彼の「人生」が始まる。日常にグルはいらないが、人生にはグルが必要だ。最近はそういうプチ・グルが満ち溢れているが、作者にとってのグルは三井物産の社長だった。だからよかったので、麻原将校だったら大変だった。作中でのグルは背の高い年老いた建築家で、通し柱に使うヒバ材が見つからないから気長に待つ、というような発言にどんどん信頼が増していく。グルってそういうものだなと思う。家を建てた主人公は最後に社運を賭けた競合他社との交渉のためにアメリカに出かけ、人生を賭けた勝負に買って帰ってくる。と思ったら、娘はすでに巣立っていて、残されたのは彼の家と彼の妻だけ。つまり「終の住処」、彼の人生そのものだ。

最後がどうもシニカル過ぎる、この小説はもっとコメディに徹していいのではないかと私は思ったのだが、娘が巣立つことについては作者はインタビューの中で子どもは勝手にいなくなってしまうもの、という感慨が語られていてそれはそれで納得できた。しかしいろいろ考えているうちに、これは小説としてのテンションを保つためにわざとシニカルに書いているのだということに気がついた。最後が救済になっていたり、普通にハッピーエンドになってしまってテンションが下がることを避けたのだと。そう考えてみると、書き出しが異様にシニカルな感じで読みにくいのも、そう言うテンションをあげる工夫だったのだと考えれば納得できる。


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