3338.磯崎憲一郎『終の住処』読了。これははじめてわれわれの世代の感覚を描いた作品ではないか。面白さのあまりつい選考委員の論評までしてしまった。(08/12 10:08)


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<画像>文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]

文藝春秋

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磯崎憲一郎「終の住処」(『文藝春秋』2009年9月号)読了。面白かった。冒頭を読み始めたときは「この小説最後まで読めるのかな」と心配しながら読んでいたのだが、最初の新婚一日目のエピソードまで読み終わったところで芥川賞の選評を読み、また6ページにわたる作者インタビューを読んでからふたたび読み始めたら、この作品のつぼというか面白さが見えてきて、そのあとはほぼ一気に最後まで読んだ。作者は1965年生まれ、私より三歳下で、ほぼ同世代と言っていい。この作品は、私たちの同世代の男であれば、かなり多くの人がその面白さを充分に感じ取ってくれるものだと思う。今までなかった「われわれの世代の小説」がついに現れたという感じだ。しかし40代になって初めて「われわれの世代の小説」が現れるというのも、われわれの世代の晩熟性が現れているなあと思う。

「われわれの世代」は、80年代から90年代にかけての「終わりなき日常」の時代を生きてきた。主人公の11年間の女遍歴、妻と口をきかなかったというか妻が口をきいてくれなかった11年間のだめだめぶりが、まさに「終わりなき日常」ってこういうものだったよなと思わせる。小林よしのりは「終わりなき日常などない」、つまり日常というものは幻想だ、と言って宮台真治を批判したが、宮台の言っていることはテーゼとしてそういうことを言っているというよりは、その日常というものを愛する方法としてそういう言葉を考え出したんじゃないかなと思った。

とにかく毎日生きているんだが、どうもなんだかしっくりこない。30歳を過ぎてから付き合い始めるということは結婚を意識せざるを得ない、という理由で結婚生活という日常に入ってしまった主人公は日常がどういうものかつかめずまごまごしてしまう。「妻の機嫌には何か周期的な法則があるのではないかと考えた。」という文には笑ってしまうが、それを読んで頷かない男は少ないだろう。「別に今に限って怒っているわけではない」という妻の反応もコワイが、それもわかる、という感じだ。「目的地に向かって歩いているつもりが、知らず知らずのうちに道のりそれ自体が目的地とすり替わってしまう」というのはまさに結婚そのものの謂だろう。しかし結婚したことで彼は変化し、仕事で信頼を得ると同時に女性にももて始める。「くだらない女」とつきあい、「理想の女」と付き合い、「生物の教師」と付き合い。このあたり何というかほとんどギャグだ。

そしてこのギャグがいとおしい。作中に出てくる主人公の思考はほとんどギャグなのだが、これがすべてそうそうわかるわかるという感じの、でもそりゃダメだよな、という感じの思考で、実にいとおしい。起こる事ごともコメディというかペーソスというか奇妙なおかしさがあり、選考委員が使っている「歪んでいる」という言葉よりは、こんなことが起こったらおかしいなというようなことだ。

描写の一つ一つがそのままこの小説のボディを構成していくという感じがこれほどはっきりしている小説はなかなかなく、保坂和志の理論がそのまま実行されているような感じだ。磯崎が保坂を読んでいるかどうかはわからないし、保坂はもっと日常に寄り添った書きぶりだが、磯崎は本当に書きたいことは日常ではなく、それはもっと後になって明らかにされる。

不倫に行き詰まって離婚するしかないと思いそれを母に告白すると(それ自体変なおかしさがあるが)「その女の子が太っているということだけは、完全にあなたの思い違いなのだと思うわ」という返事が返ってきて、「何いっとんねん」と突っ込みたくなる。そしていきなり妻に妊娠を告白され、軌道修正される。この軌道修正が自動的に行われる感じを、「周囲の誰もが知っているある重要な事実が彼にだけは知らされていないような…そんな孤独な思い」を持つ。この感じは私もよくわかるのだが、私はこの軌道修正から強引に逃れようとしてそれは成し遂げたのだがそのあと全然そういう軌道修正がかからなくなってしまった。それはそれで困るのだが、自分だけが気づいていない世界の秘密、というものは実感としてよくわかる。


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