3335.磯崎憲一郎を読んだり買ったり調べたり/動きの訓練/靖国神社に参拝する(08/15 23:50)


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<画像>肝心の子供
磯崎 憲一郎
河出書房新社

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帰京の帰途、丸善丸の内店に立ち寄って磯崎憲一郎を立ち読みする。一読して唖然とした。『肝心の子供』、主人公がブッダの息子、ラーフラなのだ。現代小説だとばかり思っていたのでびっくりしてしまった。他の二冊、『眼と太陽』と『世紀の発見』もぱらぱらと読む。だんだん『終の住処』に近づいてきた。ただ、この人の本質は、芥川賞狙いの現代的な小説よりも、もっと奔放に時代を飛び歩くものなのではないかと思った。とりあえず『肝心の子供』を買った。

あとになって、神田の東京堂ふくろう店で『文学界』を立ち読みしたら、磯崎憲一郎と保坂和志の対談が掲載されていた。磯崎は保坂の影響をかなり受けているのではないかと思っていたのだが、デビュー前から保坂と親交があったということで、ああやっぱりと納得した。

昨日は仕事を休みにして、朝から松本で活元の会に参加する。8時半頃出かけて10時前についた。活元の会で先生の話を聞く。正直言って、活元の会ははじめての参加者を主に対象にしたものという印象が強く、最近はあまり参加していなかったのだが、今回は8月14日という日の設定と20日の愉気の会がお休みということもあったのか、踏み込んだ話が聞けた。野口先生を偲ぶ会で流されたテープの抜粋を元にした話。「人間の体というのは大変便利に出来ております。便利だということの大部分は、意識しないで動くという運動様式を持っているからです。」「そういう外路系の運動で人間は生きるということを護っている。人間が生きているということと直接つながりを持っているのは外路系なのです。」これは野口整体では基本的な考えなのでしばらくやっているとそれは当たり前のような気がしてくるが、それを観念でなく実践の問題としてとらえるとなかなかそれだけでやっていくのは難しく感じられることも多い。しかし、「そういう外路系も体の能力ですから、訓練するほど強くなる。」その外路系の訓練の最も意識して行なわれる方法が活元運動なのだ。

活元運動というのは「自然に発現する運動」だという意識でとらえてしまうと、訓練するのは邪道だ、という意識になってしまいがちだ。しかし、昨日話を聞いていて、訓練なのだから積極的に、またまめにしないといけないんだ、ということをようやくちゃんと理解で来た。また、活元運動をしてもなかなか上手く動かないことがあるが、そういうときの対処法―体を伸ばして力を抜く方法、通りにくいところに息を通す方法―を練習して、ああこれでいつでも何とかできる、という気持ちになった。型に当てはめて、型どおり動けるようになることだけを訓練だと思うから、型からはずし体が自然に自由に動けるようになる活元運動が訓練によって鍛えられると言う意識がなかなか持てなかった。誕生日の目標として「活元運動を磨く」ということも入れたのだけど、そういう考えでいいのかどうかも自信が持てなかった。昨日の会でそれでいいのだということが確認できたのが、一番の収穫だった。

午後は山びこドームの緑地で昼食を食べ、そのまま八ヶ岳の山麓へ。選んだ道がよくなくて思ったより時間がかかってしまった。それから職場に出てブログを更新し、実家に戻る。上の妹と子供たち、弟の一家、下の妹と子供たちが集まって、久しぶりに賑やかに。最近は、母と私だけでぶつぶつ言いながら食卓を囲むと言うのが続いていたので、久しぶりに賑やかで楽しかった。それにしても甥姪たちも一人が高校生、二人が中学生になって、なんだかでかい。

私は今朝、7時過ぎの特急で上京した。帰りがけに丸の内の丸善に寄ったことは前述の通り。今日は終戦の日で、毎年靖国神社に行っているので帰宅前に行こうかと思ったが、どうも腹具合があまりよくなく、家で一休みしてから出かけようと思い、まず帰宅した。夕方まで鬱々と家で転がっていたが、あまり蒸し暑くなかったので助かった。


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