3314.養老猛『バカの壁』を読み直す(09/03 20:11)


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第三章「個性を伸ばせ」という欺瞞。個性ということについての養老の主張はかなり面白いのだが、いろいろ書いてみたがどうも自分の中で個性に対する考え方が上手くまとまっていない。養老の言うポイントだけ自分なりにまとめると、個性とはいいものとは限らない(石川五右衛門のように泥棒が上手いとか、ゴルゴ13のように殺人がうまいという個性もある・これは私が噛み砕いてみた例だが)のに、そういうものは思考の埒外に置いて「求められる個性」のみを伸ばせというのは欺瞞だ、ということだと思う。教育現場にいれば、底辺校に行けば特にどうにもならない個性的な生徒がごろごろいる。そういう面を見ずに個性を尊重しろというのは思考停止もはなはだしく、またそういう言説によって存分にそういう個性を伸ばしてくれる生徒も多いわけで、全く迷惑な話である。

個性を尊重するということは、独創的な問題解決が出来る力を尊重するということだと言い換えてもいいだろうけど、アメリカならいざ知らず、日本の教育現場でそんなことが出来ることはほとんどない。トップ校において独創的な数学の解法を編み出す生徒はいるかもしれないが、学校教育の範囲内でそんなに独創的なことを出来る力のある生徒自体がまずあんまりいないし、それに対応できる教育態勢を取れるところも限られている。これはいわば「憧れ」を述べているのであって、ほとんどの生徒にとっては「個性」は発揮しようにも発揮できないものであり、そうした言説が繰り返されればされるほどフラストレーションはたまるし、自分の力についてのリアリティをもてないままその言説に惑わされると地に足のついた自己探求が出来なくなるし、また「個性を発揮する」ということに絶望した人の中には「個性はないけどいわれたことはちゃんとできるぞ」というマニュアル人間となることで代償を求めようとする人もでてくる、と養老は言う。

人間はみな異なる身体性を持って生まれてくるわけだから、人はみなすべてもともと個性的だと養老はいうが、そこまで広げて個性を考えれば、学校教育の範囲内におさまる人などほとんどいるまい。

養老は、そういう状態の中で個性をいうことはむしろ弊害の方が多いと言いたいのだと思うし、教育はむしろ共通了解を増やすこと、人の気持ちが理解できるようになること、私の言い方でいえばより多くのリアリティを獲得することを目指させた方がよりまともなのではないかと言っている。それは全くそうだ。

私の教員経験から言っても、もともと個性的なものを多く持っている生徒の個性を伸ばしてやることは、確かに楽しいことだ。そういうものを自覚していない生徒にそういう自覚を持たせ、伸びていくのを見るのは私は教育者の醍醐味だと思う。しかしそれは教育者の個性と生徒の個性が合致した幸福な例外であって、その例外を原則にすることは事実上不可能だと思う。その不可能を原則と錯覚させているところに、個性尊重の欺瞞性があるのと言ってよいのだろうと思う。

幸福な例外を原則にするという幻想によって思考停止に陥ることもまたバカの壁で、教育にはそういう幻想を商売にする(出世の道具にするとか自己満足の道具にするとかいう意味で)輩が巣食っていることはもっと広く認識されるべきだと現場経験者としては思う。幸福な例外は個人教授でなら出来るけれども、学校教育ですべての生徒を対象にすることは不可能だ。

続く(多分)。


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