3314.養老猛『バカの壁』を読み直す(09/03 20:11)


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別に歴史が科学である必要はないと私は思う。もし科学であろうとするならば、言説はすべて、「…である蓋然性が高い」というふうにしかいえないはずだ。しかし、聖徳太子がいたとかいなかったとか、どちらもそれを科学的な言説と考えれば馬鹿げている議論だし、科学でなく人文学と見れば文献に書いてあるものをみだりに否定する情熱はそれはそれとしてそうですかというだけで済ませればいいけれども、正しいとか正しくないとか判定すること自体に違和感がある。

真理は多数決で決まるはずはないのだが、(これも養老の本で書いてあって大いに意を強くした)しかし現実問題として、学界において「何が正しいか」は多数決というか主流派の意見で決まっていく。以前も書いたが、日本の歴史学界では京大系の歴史学と東大系の歴史学があり、京大系が公家や朝廷の役割を重視する傾向が強く、東大系が武家の役割を重視する傾向が強い。それぞれの傾向に反する説を出すと就職に差し支えたりするわけで、こんなものを科学といってもらっては科学の名が泣くというものだ。人文学ならいくら説があったって構わないのだから、歴史は人文学であるべきなのだ。

「私自身は、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰だと思っています。」と養老は書いていて、それは私はとても納得できるのだが、歴史学ではそうはいかない。論文を書けば一つ一つ事実を認定していかなければならないわけで、実は結構そういうことが苦痛だったんだなと思った。論理実証主義というもについて、私は正直言って深く考えないようにしていた。というのは、それを疑ってしまえば歴史学の科学としての成立根拠を疑うことになってしまうからで、無意識にそれを避けていたのだと思う。

だから、それを考えざるをえないという事態に直面して私はやはり戸惑いを感じている。科学を振り回す歴史学者に反感は感じても、それに比べれば遥かに私にとっての問題が大きいからだ。

しかしここで少しひるんでしまうこういう思いの中にも、何か自分にとって大切なものがある気がする。よく考えてみたいと思う。

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第二章では脳内の入出力ということについて言っている。xという刺激が与えられたらaという係数がかかって、yという反応がなされる、と脳の機能を単純化して示し、脳の役割は y=ax という一次方程式であらわされる、という言い方は面白いと思った。問題はこの a の値であって、これが a=0 であれば反応はゼロになる。つまり、刺激が与えられても反応が起こらない。たとえば、インフルエンザが流行っているから手を洗え、うがいをしろといってもそういうことに対して何のリアリティもなければうるさい人がいるときはやってもいなければ何もしないだろう。逆に、a=∞であれば、どんな刺激でも無批判に過剰な反応をすることになる。これは原理主義だ、と養老はいう。あるいはカルトもそうだ。

ではこのaという係数は一体なにか、と言うと、ここから先はそれを読んで私が考えたことだが、つまりはそのことについてその人が持っているリアリティ、ということになるのだと思う。リアリティというものは、広い意味での学習をすることによってしか身につかない。マッチで火傷をしたことがある子は火の怖さにリアリティを持つが、ない子に理解させるのは難しい。学習というものの本質的な意味は、いろいろなことに対するより多くのリアリティを持つということで、違う言い方をすれば「人の気持ちがわかる」ことだろう。教養ということの本当の意味はそういうことで、ひとの事情により深い理解を持てる人のことを、私たちは「教養のある人」と感じるのだと思う。それはさまざまな直接体験だけでなく、人の話を聞いたり、あるいは文学を読むことによって理解し、一定のリアリティを獲得してた人こそが常識があり、教養がある人であると考えられる。文学の存在することの社会的意味というのは、そういうことにあるのではないか。

養老がいっていることは、この係数が0だったり無限大だったりすると、そこに「バカの壁」が立ち現れるということだ。係数はプラスでもマイナスでもいい。しかしゼロだったり無限大だったりすると、思考停止が起こる。無関心や行き違い、原理主義的な過剰さがなぜ起こるかという説明としては面白いと思うが、その係数をリアリティととらえるとより思索が進むように思う。

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