この辺になってくると、正直かなり難しい。確かに言われるとおりだと思ってはみるのだが、世間に流布した思い込みに自分自身が相当毒されていることを自覚させられる。考えているうちに、それこそ自己同一性(アイデンティティ)が揺らぐ感じを覚えたりする。とにかく、虚心になって自分自身を見つめてみないといけないと思う。
ただ、個性というものは身体性に由来する、というのはだいぶ納得がいくようになってきた。自分の中で個性を本当に自覚したと思えるのは、舞台上に立ったときのことであったり、野口整体で自分の体についていくつかのことを知ったりしたときであったなあと思う。舞台に立ってみると、他人と違う自分、というのは強く自覚する。明らかに別々の肉体を持っているのだから当然なんだが。個性というものは実感するもので、想像するものではない。
そういうふうに考えると、自分の個性に自身がもてなくなったことと、演劇から手をひいたことは関係があるのだなあと思う。演劇という身体性を失い、文章の世界に取り組むようになってから、私の迷走は始まったという部分はあるのかもしれないと思う。
考えてみれば個性的な人、たとえば作家や学者でも、は、やや芝居がかったところがある。文章の世界や論理の世界では発揮できない身体性を、そう言うところで埋め合わせているのかもしれないと思う。
最近『ピアノの森』を読むようになってから、自分の中に回復してくるものをたくさん感じるのだけど、それは読みながら作中に出てくる音楽を聴くようになったことともとても関係しているのだなと思う。私は音楽を聞くことでそこに身体性と記号性の両方を存分に吸収しようとしているのだなあと思う。
アートとは、自分は相当程度意識の問題だと思っているところがあったが、本当はそうではなく、身体性の問題だったんだなと思う。だからそれは、演劇を離れることで失われた身体性を、アート全般に触れるという形で回復しようとしていたということなんだなと思った。
文章だって、その作者の身体性がよく表れているものはある。そういう意味で文章は単なる情報の枠に収まらないところがある。そしてそういうものがよい作品なのだ。私のアートとは、私の身体性を発揮することなのだ。