3312.日常的なもの/知ることと死ぬこと(『バカの壁』を読み直す・その3)(09/05 13:51)


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<画像>ショパン:バラード&スケルツォ
アシュケナージ(ヴラディーミル)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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日常的なことを少し。毎日朝、モーニングページを書いて活元運動をし、朝食後少し本を読んでブログを下書きなどし、昼前に山麓に出かけて帰りに少し買い物。水曜日にはユニクロによってストライプのシャツを一枚買い、木曜日には平安堂によってアシュケナージのバラードとスケルツォのCDを買った。これは1978〜84年に録音のもので、すでに持っている64〜67年の録音のものに比べると相当円熟味を増している。同じピアニストの同じナンバーを二枚買うのもどうかなと思ったが、それはそれで面白いということがわかった。

帰ってきて昼食を取り、少し休憩してから本を読んだり文章を書いたりして、3時半から仕事。昨日は新しい仕事が入って、結構充実した。夜10時まで。

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<画像>バカの壁 (新潮新書)
養老 孟司
新潮社

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『バカの壁』を読み直す。その3。第4章の第5節、「「知る」と「死ぬ」」。

人間はなぜ勉強するのか。今ある自分をそのまま保つためなのか、といえば、そういう勉強の仕方(つまりマニュアルを身につけるとか)もあるかもしれないが、本質的には今ある自分よりもよりよい自分になること、つまり変化するためにするものだろう。勉強するのは「知る」ためだ。そのことを「知らなかった自分」から「知った自分」に変化すること。

そのことの根本的な例として、たとえば「自分が癌で余命半年であることを告知されること」というのを養老は上げている。自分が癌であることを知ったとき、そのときに見る桜は、それ以前の桜とは見え方が違うだろう、それは桜が変化したからではなく、つまり世界が変化したからではなく、自分が変化したからだ、と養老は説明する。知ることによってすべてが変化する。そしてその前のことはもう思い出せない。知るというのは根本的にそういうことではないかというわけだ。

このあたりの例の挙げ方が多分養老の文章の難しさの源なんだと思う。例は確かに判りやすく、インパクトがある。しかし、インパクトに惑わされて何を言いたいのかがよくわからなくなってしまうのではないか。少なくとも私は最初にここを読んだとき、「なんだか怖いことを言っているが一体何を言いたいんだろう」と思った。「知る」ということとその「怖さ」というものが結びつかない。なぜならば、私は「知る」ということにプラスのイメージしか持っていなかったからだ。私はとても優等生というようなものではないが、優等生の人たちは特に、知るということにマイナスのイメージを持っている人はあまりいないのではないかと思う。知れば知るほど自分が向上する、という程度のイメージなのが普通だろう。


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